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【映画随筆#7】ハングオーバー!

今回は、トッド・フィリップス監督の ”ハングオーバー!消えた花ムコと史上最悪の二日酔い”を鑑賞し、感じたことを記事にしていきます。(注)本稿はネタバレを含みます。

作品名:ハングオーバー!消えた花ムコと史上最悪の二日酔い
公開日:2010年7月3日(日本)
出演:ブラッドリー・クーパー、エド・ヘルムズ等

まさか「ジョーカー」を生んだ監督と同一人物とは思えないほど映画としての方向性は違いましたが、楽しませてもらいました。コメディ映画自体久しぶりに見たのでなかなかワクワクする映像体験であったと断言します。
さて、今回私が本作を見て、徒然なるままに抱いた実感としては、男はいつだって冒険好きということでした。あまり昨今男性/女性を主語にして物事を語るべきではないのですが、一旦ご容赦ください。男の根源的な部分にある”探求心”、それをくすぐられたオスは、その衝動を抑えることなどできないのだということを改めて思わせてくれた作品であったなと思います。
何故探求心に駆られて男性は行動してしまうのか。なぜ、あんなにも後悔すべき点が多いのにベガスに行ったのか。それは一言で言うならば、王様になりたいから、というのが私の仮説です。ベガスに行くことと、王様になること、何の関係性があるのかとも思うかもしれません。しかし、この”王”への欲求というのは、なにも、王冠をかぶって高級な装束を身にまとい、いたずらに権力を振りかざしている存在にただなりたいというものではありません。むしろ男性なら一度は感じたことのある、素直な欲求なのではと推測します。それは、”従属関係からの解放”と換言することができるでしょう。男たるもの、他の上に立つ存在でいたい、それが自分の遺伝子が強いことの証であり、他者に縛られない条件にもなります。何かしらの王になること、それは他人の指図に乗っからない一番自由な存在と同義と見なしてよいでしょう。ダグたちも、その自由欲しさにベガスに飛び立ったという風に私は解釈しました。普段の社会的立場によるしがらみや、彼女による束縛もない。自分の選択で、自分を楽しませることを許すその日は、本能レベルで抗えないワクワクを、彼らも抱いていたことでしょう。

一方で、我々の現実世界、そして殊日本において、この”王”の欲求はどんな形で露呈するのでしょうか。現代において、この王への欲求を分かりやすい形で追い求めている人はそれほど多くないと思います。しかし、それは王になりたいという本質的気持ちが、昨今の男性から完全に消えてしまっているかといえば、そうでもないと考えます。草食系男子と呼ばれる類の人にも、人並みの、「王欲」があると思います。そして、それは奇しくも、今回のダグたちが一時的に遠のけた、”所帯を持つ”行為なのではと考えます。結婚という契約は自由からはあまりにも遠いような気もしますし、夫婦の関係を考えると、男性側はどちらかというと従属側になる人も多分に存在していると思います。先ほど言及した草食系男子なぞ、その代表例にも思います。しかし、それでも「自分」という存在を受け入れる集団として家族を形成することには変わりないと思います。自分の苗字を名乗り、自分の名付けた自分の遺伝子を含んだ子供と同じ空間で過ごす。言い方は気持ち悪いかもしれませんでしたが、これは実質自分の王国といっても過言ではないのです。さらにいえば、勤め先ではない所属先を生み出せる、というのも大きな意義を果たしていると思います。それは会社でのポジションがいくら支配的であろうと、本質的な王にはなれないことの裏返しかもしれません。権力を有していても、自由気ままでいることが許されていないことは明白です。それはいわば求められている役割を全うすることに付随する権力でしかないのです。他方、自分の抱くような界隈を形成することができて、自分の意見を反映することができる環境を用意するという意味で、所帯を持つことは”王”になる願望をかなえることになっていると私は考えました。

全く別視点から、本作が共有してくれた示唆を言語化すると、自分に言うことを聞かせようとしてくる、得体のしれている人より、出自や境遇が一見よくなさそうでも、自分のことを分かってくれようとする人は素敵に映る、そのような教訓をスチュアートが教えてくれたような気もします。これは以前私が視聴した、Pretty Womanでも似たようなことが言えると思います。(Pretty Woman の場合、特にヴィヴィアンのアンチテーゼのような比較対象はいませんでしたが)参考までにPretty Womanについて記述した記事も添付しておきます。

確かに出自や肩書のようなものはきらびやかに見えるものもあり、その人自身の格もまた、その肩書に引っ張られる状況はたくさんあると思います。しかしそんなものは逆に結果論でしかないともいえる。あるいは、まだ違う道のりになる可能性を秘めたうえでの家庭に過ぎない可能性もある。そういう意味では、自分の安心と保全のために、他人にへりくだることをするのは、本質的に自分に失礼に値する。自分を大切にできない人間は他人にもできないと通説で聞きますが、その通りだと私も考えていて、映画のように自分を大切にできないように考え方を認めてくれないお相手と本気で向き合うのは、あらゆる面で不誠実であると評価することができると思いました。

映画としての深みみたいな部分があるなら私は気づけなかったので、表面的な部分を見て笑って、上記のような思いに至ったというわけです。KAT-TUNのReal faceを思い出すくらいには時間ぎりぎりのゴールインでしたが、それが彼らの生きざまであり、男としては魅力的に映る生き方だと、再確認させられた映画でした。
余談ですが、先月辺りにお酒でめっちゃ失敗してしまったので、ルーフィー入れられたんじゃないかとか一人で疑ってました笑。私も自分なりの”王”への渇望に向けて努力しつつ、お酒はほどほどにしたいと思いました。noteなのにプライベートについて語ってしまって恐縮ですが、そういう意味ではすごい人間味に晒された、ファニーな映画でたまにこういうのも悪くないと思いました。それではまた、次回の記事でお会いしましょう。

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