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「農作業をする身体」を情報源に、縄文時代の蛇と蛙を想像する

僕は毎日農作業をしている。
そうすると、縄文時代にアクセスできそうな経路が畑の中からちょくちょく見えてくることがある。

最近になって縄文土器を見たり、いろんな本を読んだりするうち、ひょっとしたら「毎日自然に触れている身体」というのは、縄文時代を知る上で、最大の情報源になるんじゃないか、と思い始めた。

もちろん、いくら自然と密接だからって、縄文時代について新たな事実はわからない。放射性炭素年代測定にまさる分析力は、いくら農作業をしても身につかない。

つまり裏付けになるようなことは何一つわからない。
じゃあ何がわかるかと言えば、「どういうつもりだったのか」がおぼろげに見えたり見えなかったりとか、そんな程度のことだ。
事実とされているものをひっくり返せるような展開には、たぶんならない。

例をあげれば、たとえばyoutubeとかを見ていると「縄文時代に米を食べていた驚愕の事実!」的なサムネイルに出会う。

農作業者はそれを見ても驚かない。そりゃそうだろうと思う。別に水田がなくたって米は育つのだ。
弥生時代は大人数を必要とする巨大な水田を始めたところが特別なのであって、稲自体はそれ以前から生えているし、それが食えるならもう食ってたっておかしくはない。

別の例を挙げてみる。
土器の装飾を説明する際、「象徴」という言葉がよく使われるけれど、農というダイレクトな世界にいると、どうもこの象徴、まわりくどく感じてしまうのだ。
確かに「象徴でしかない」表現も多いから、たぶん正しいんだろうけど、どうしても全面的に頷けないというか、わずかな懐疑を持ってしまうのだ。

どうも象徴は、ダイレクトではないのだ。
そして、ダイレクトにしない理由がわからないのだ。
縄文時代につくられたものには、そのものズバリの直接表現だってたくさんある。
「隠す」意味合いで符丁的にわからなくするなら、まだ理解できる。けれど、わざわざ「象徴」にまでシンボライズしなきゃいけない理由がいまいち伝わってこないのだ。別に直接言えるんなら言えばよくね?的な。

こういった感じで、自分の農的な日々と地続きで縄文時代のことを考えるのはとても楽しい。
最近は畑にいても、こんなことばっかり考えている。

今日はずっと「蛇と蛙」について考えていたので、それを書いてみます。

蛇と蛙は縄文土器装飾におけるメインキャラで、どうやら蛇は男性性を、蛙は女性性を表現しているらしい。僕もそう思う。

しかしこの二者の出現比率、実際に畑で作業をしている実感で言えば、だいたい、
「蛇1:蛙1000」くらい。雲泥の差なのだ。

熟年のベテラン農家のおじさんだって、畑で蛇を見たときは「お。蛇だ蛇だ」と若干テンションが上がるくらいなのだ。

つまり、蛇はかなりのレアキャラだ。
蛇は賢いので人間の気配にはまず近寄らない。これは令和でも縄文でも、それほど変わるとは思えない。

僕は縄文時代の男性について「狩猟しながら移動して集落を渡り歩く半定住者」だった、という情報を信じている。

女性たちが住む集落に、低確率で登場する男たち。
この感じ、畑で蛇を見かけた時の感覚に近かったのではないだろうか。

「あ!男が来た!」的な。
すぐどっか行っちゃうところもまた蛇っぽいし。
あともちろん、男性器そっくりだし。先っぽの矢印なんてもう、ねえ。

この「見かけちゃった」「見つけちゃった」っていうダイレクトな感覚は、たぶん全時代に共通している。そこに象徴の入り込む隙はないはずだ。

土器はたぶん女性が作っていたという説を、僕も信じている。
土器のキャンバス上では、蛇の登場頻度は高い。蛙よりも全然高い。
ということはひょっとして、男性が「対象化」されていたのかもしれない。
以前の記事にも書いたけど、メディアの主導権を握っているのが女性なら、そうなるのも妥当な流れかもしれない。

そんな彼女たちが日常的に、当たり前のようにあちこちで見かける「蛙」。
これは単純な生き物というより「なにかを生み出せる粘膜」ではなかったかと思っている。

この「粘膜性」は、それを象徴することで消えてしまうような気がする。象徴してしまったら、フィジカルは切り離されて、粘膜の融通無碍な感触が消えてしまうのだ。

先の発言で「女性性」と書いたが、男女の二項対立にするのはちょっと早まった。すこし細かく言えば女性性ではなく「生成性」だ。

カリッとしたものやツルッとしたもの、実体がちゃんとしたものは、既に成立している。パーフェクトだから、そこから何も生み出す必要がない。

生成に必要なのは、ウネウネグジュグジュブヨブヨデロデロした、形容しがたい不定形さだ。

おそらく縄文時代の人たちも、傷を負うことだってあっただろう。そして、傷が治ってゆく過程も、現代人同様観察していただろう。
皮膚はわかる。それが切れて血が出るのもわかる。しかし、治りかけに発生する、この鼻水みたいなグニュグニュに対して、無関心でいられたとは思えない。

このグニュグニュ、蛙の手触りと似てないか?
このグニュグニュが、いつの間にか皮膚を再生しているのではないか?

男性を形どる素材は石だ。なぜなら、「硬くなる必要がある」からだ。フニャフニャな蛇の口から子種は出ない。

女性を形どる素材は粘土だ。言わずもがな、「柔らかくなる必要がある」からだ。硬さに応える柔らかさがなくては、つらい。

土器は女性そのものを形どったものだとも聞いた。
確かにそうだと思うけれど、「器」という形状に子宮的なイメージを託すのは、今はまだ保留したいと思っている。

それよりも今は、土器で煮炊きすることによって、動植物が「グニュグニュしたもの」に変質することに注目したい。孤立した生命体は加熱された土器の中でグニュグニュになって、人間の口を通って、体内のグニュグニュにアクセスし、結果的に身体を生成する。つまり育つ。

(ちなみに男性が携行食としていた「縄文クッキー」が固いのも男性性…というのはちょっとこじつけか)

体内の全ては粘膜で、そこにゲル状の精液が入る。もう何もかもがグニュグニュだ。
人間の皮膜はサラッとしているけれど、蛙は体表もグニュグニュしている。ちょっとキモいけど、「全身を生成性で包んでいる」と思えば、ありふれた生き物でありながら、生成性そのものに見えてもおかしくはない。もちろん、タンパク源として食ってただろうし。

蛇はウネウネするけれど、グニュグニュ感はない。意志の力を感じる。生成的ではなくて、目的への前進性がある。結局は「運び屋」なのか。

縄文土器の「渦」がチョロQのプルバックみたいに跳ね飛ばされて進むのが蛇だと、勝手に思っている。
蛙は、生成する粘膜の手、つまり自分の手と同じものであって、土器にも蛙の指は三本で刻印されている。
もう、生成行為は総粘膜。土器を作ることを「粘膜行為」と言っちゃうのはちょっと、言い過ぎか。

でも、「粘膜は生成する」という感覚は、身体的な感覚として誰もがごく当たり前に感じることができると思う。

だから、これを象徴行為で定義したくない、という気持ちが湧いてもおかしくないのではないか。
女性であって土器であって蛙であって粘膜であって生成物であって生成主体であって。
これらの不定形などっちつかずたちを一言でまとめようと、万物流転とか生命とか輪廻とか、包括的な言葉でパッケージしてしまうと、この無限に思える生成性は失われてしまう。
当時は言葉がなかったから、彼女たちはおそらくレヴィ=ストロース言うところの「構造」を、身体的感覚の延長で捉えていたんだと思う。

まとめるつもりがないのだから、まとまらないのも当然か。
でも、吐き出すと、ちょっと楽になると思いました。
いつもながら長々とお付き合いさせてしまい、すみません。
土器を見に行かない日々になると、こうやって頭でっかちになってゆくみたいです。

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