映画「あんのこと」
とてもきつい内容だった。
ところどころにわずかな誇張表現があって、それがちょっとした救いになっていた。
公営住宅の薄い汚れが堆積したあの感じ、住んでいた訳でもないのに、かなりの既視感があった。
どんづまりの世界のさらに奥、部屋の隅でゴミ袋は堆積する。見ている側はなぜかその風景に既視感がある。ひょっとしたらもう、ゴミ袋は未来永劫そこから動かないかもしれないということも、誰もがなんとなく予想している。
主人公以外のスポットが当たる登場人物は、刑事役を筆頭に誰もが狂っている。程度の大小はあれど。
というより、狂うか、自閉するか、都会ではそれ以外の選択肢がない。
正しい狂い方は、学校で学ぶ。学校以外で学んだ狂い方は、警察のご厄介になる。
全員間違えている。決まりごとの狭間に転落してしまった人だけが、それを見ることができる。絶望したのは、彼女が正気だった証拠だ。
つくづく思うのは、どうしていつも、最も追い込まれた人だけが正気なのか。
自分は正気なつもりだけど、どうも世の中ではそれが逆におかしいのだと思わされることばっかりで、さらには自分の関係する何もかもが上手くいかないのは、自分の正気が原因かもしれない…なんてのは、そりゃ合点がいかないだろう。
でも、狂いたいけど狂えないのだ。狂ったもん勝ちだということは、嫌でも思い知らされているのに。
でも、被害者だけは狂えない。狂った人をたくさん見てしまったので、正気になるばっかり、孤立するばっかりなのだ。
自分の人生が上手くいかないのは、自分のせいだ。
ちょっと前だったら、そんなことを言おうものなら、世の中が瞬時に「そんなことないよ!」と言ってくれた気がする。別に言ってくれるだけで何もしてくれないけど、少なくとも言ってはくれる、くらいの余裕はあった。8センチCDの応援ソングとか。
今はもう、どこからも応援ソングは聞こえてこない。
人を救いたいという気持ちは、正気ではない。
映画の中に、それは誇張されて描かれている。
ひょっとしたら、「ひとりが救う」というファンタジーを、僕らが信じすぎているのかもしれない。現実はみんな知っている。「ひとりで」人を救うことなど不可能なのだ。
サイアクだった主人公の母親だって、イカれすぎているけれど、救い救われの渦にいる。
主人公を決定的に追い詰めた彼女の行動だって、ひょっとしたらひとりの命を救っていたかもしれないのだ。
映画として切り取られた部分については、救いがなさすぎる物語になっていたけれど、映画全編を満たす「感じ」は、都市生活者の肌感覚を正確にトレースしていると思った。誰もが、他人の家の台所から漂ってくる夕食の匂い、道端でそれをキャッチしてしまうことから喚起される焦燥で、思った以上に自分の気持が乾燥していることに気付かされる。欲望喚起の世界でその乾燥は癒せない。やれることといえば、お金で買ったクリームを塗るくらいだ。もしくは、深夜のコンビニで買ったエクレアで血糖値をブーストしながら眠るか。
そうやって命を繋いでゆくしかないのか。
人間と人間の間に彼女は落ちた。じゃあどうすればよかったのか、と自問自答するのが宿題ということか。
でも最近、そういうのもだんだん、つらくなってきたかもしれない。