イグニッション・パララックス──ヨルシカ《451》と「引火」をめぐって
Writer:城輪アズサ
(以下、特に記載のない場合、本文中の引用部はすべてヨルシカ《451》の歌詞を参照している)
Chapter-0:fatal fragment
ある対象を語る主体の姿が隠匿され、言葉そのものの足場が揺らいでもなお「なにか」が伝わってしまうこと。それを可能にするテクストが、たしかに存在する。それは希望だ。それは光だ。寄りかかるには、あまりに危険な輝きであるけれども。
前提として、テクストはなにかを伝達する必要がある。何の思惟もなく引き裂かれ、断片化した言葉は、言説は、必然の帰結として排除=検閲されるほかはない。
レイ・ブラッドベリ『華氏451度』はそのようなありかたについての小説であったろうか? 一見しただけではわからない。仔細に読み解いていけば、何かが浮かび上がってくるのかもしれない。しかしここでただちに確認されねばならないのは、同作の象徴的なファクターである、昇火士(fireman)による、炎を用いた検閲のイメージが、すでに一つの作品を飛び越えて流通しているという事実である。
炎による検閲。僕がそれを聞いて想起するのは映画『リベリオン』におけるパロディだ。あるいは『図書館戦争』。検閲の炎の引火。あるいは検閲の表象の引火。さながら炎それ自体のような、ブラッドベリ謹製のイメージが複製され、拡散されゆくこと。伝達=引火のオブセッション。
ヨルシカによる楽曲《451》もまた、そうした引火のプロセスの一端としてある。そしてその詞的世界が、まさに「引火」を対象としたとき、同作は『華氏451度』のインスパイア・ソングであることからいっとき跳躍し、ヨルシカがかつて中心主題とした「盗作」(と「創作」)をめぐる思弁を再び呼び覚ますことになった。しかしそれだけではない。同作の胚胎している可能性は、そこにとどまるものではない。
いささか拙い筆致ではあるが、本論考では《451》と、ヨルシカをめぐる「引火」および「盗作」に新たな視座を呼び込むことを目的としている。それは一人の鑑賞者としての視点からはかけ離れた、もうひとつの視点を持ち込むことによって、視差を作り出すことによってなされる。
その視点こそ、本サイト:net stonesに原稿が掲載されるはずだったとある書き手が前提とした現実性に他ならない。それは「延々と続く言語や暗喩の横滑りの中に、自分を含むこの世界を金属バットでぶん殴るような、ある種の殺伐とした批評性」(*1)を備えた書き手──壱村健太(@ichimura_kenta)氏の現実性である。
Chapter-1:月明かり・簒奪・大火
「夜好性」の時代、あるいはプロジェクトとしてのヨルシカ
「ヨルシカ」は、コンポーザーのn-bunaと、ボーカルのsuisからなるプロジェクトである。2024年現在、ミニアルバムや特殊な形態のものも含めると現在六枚のアルバムをリリースしており、その活動は七年目に突入している。音楽集団の構成単位としては、一応バンドの形態をとってはいるが、彼らの制作する作品群はバンドという形式に対して異質なものとしてあり、同プロジェクトはまさにその異質さにおいて広く受容されてきた経緯をもつはずだ。
ところで、同プロジェクトを評するうえで外せないのが「夜好性」と呼ばれる音楽的区分の存在である。10年代末から20年代前半にかけての音楽シーンのムーブメントを指すその言葉は、ヨルシカのほか、やはりプロジェクト的な側面の強いユニット「YOASOBI」、「ずっと真夜中でいいのに。」によってしるしづけられている。
「夜好性」を下支えしているのは(上に挙げた三者がそれぞれ「夜」を名前に配しているという点を除けば)その音楽性、もっぱら制作面にかかわる性質の類似である。彼らがボーカロイド・カルチャーや、それと領域を接する打ち込み音楽──DTM・DAW──のカルチャーの強い影響下にあり、現にそのような工程において音楽を生み出しているという事実のうちに、このジャンルと定義は成立している。しかし「夜好性」を下支えしているのは、こうした音楽批評の文脈だけではない。広範なリスナーの存在。それこそがこのジャンルを下支えし、また圧倒的に強度のあるものにしている。
実際、このジャンルに属する三つのプロジェクト/ユニットの少なくない楽曲は、ストリーミングサービスにおいて1億を超える再生回数を得ている。かつてニコニコ動画の音楽ジャンル(もっぱら、ボーカロイド・カルチャーにおけるもの)には「神話入り」と呼ばれる一線──1000万再生を指すもの──が存在した。しかしここにある再生数は、つまりリスナーの数は、そうした一線を遥かに超越している。かつてボーカロイド・カルチャーはサブカルチャーであった。濱野智史の言説を引き継ぎながら宇野常寛が指摘したように、メイン・ストリームの「昼」からは遊離した、「夜」の文化であった(『日本文化の論点』)。しかし今や、「夜」はメイン・ストリームを形作る文化として、無視できない存在感を示している。
そしてその定義・括りの内側においても、ヨルシカは先に触れたように、ある種の異質さをたたえてあった。
その異質さを正確に言い表すことは難しい。DTM・DAW的なものへの親和性を示しながら、一貫してロック・サウンドによって楽曲を彩る姿勢。彼らの発表するアルバムの多くが、一枚一枚がスタンドアローンな物語を備えている点。それと同時にボカロPとしての知名度を抱え込んでいたn-bunaの「作家性」を伝達するものとしても成立していた点。それらをもって、「異質さ」を象ることは、あるいは可能だろう。しかし究極的に、ヨルシカの異質さはそうした客観的事実とは無縁であるようにも思う。ではヨルシカは、いかにして異質なのか。
それを探るための契機を、僕は「引用」に見出してみたい。
盗まれた音楽
引用こそは、ヨルシカを特徴づける技巧である。彼らはしばしば文学や映画を参照することで作品を成立させてきた。《ヒッチコック》(アルフレッド・ヒッチコック)、《ノーチラス》(ジュール・ヴェルヌ『海底二万里』)、《靴の花火》(宮沢賢治『よだかの星』)。それは表面的なレベルに留まることもあれば、分かちがたく詞的世界を規定する「原典」として機能することもあった。
そしてヨルシカ三枚目のフル・アルバムとなる『盗作』において、そうした技巧はいささか露悪的なかたちで自己言及を被ることになる。そこで行われていたのは、彼らがこれまで行ってきたような「参照」(=引用)を「盗作」と読み替えて主題化し、再定義するということだった。参照を行うということは、音を、言葉を、夢を、簒奪するということだ、と。そうした想定にあって、コンポーザーは、コラージュとカットアップを連鎖させる「音楽泥棒」になる。
そうした主題を湛えた『盗作』の内包する物語(このアルバムにもまた、それぞれの曲を通貫する単一の物語が付属している)は、無視できないラディカルさをたたえて、すべての音楽リスナーにさえ迫っているかにみえる。アリストテレスを持ち出すまでもなく、すべての芸術は模倣のはたらきから自由ではいられない。そしてそれは、インターネットのよりいっそうの拡散と浸透によって、検索可能性が加速度的に高まりつつある世界において、ますます深刻な問題として立ち現れてくるものだろう。アーカイブ的に歴史がいま・ここと直截的に接続してしまうような事態の現出。こうした状況において、『盗作』はラディカルなアイロニーとして機能する。否応なく機能してしまう。そのようにデザインされている。
とはいえ、こうしたアイロニーはのちの作品『幻燈』においては後景化していたように思う。同作は『盗作』よりも徹底して「引用」を行った作品であった。しかし同作がそれを「盗作」として見出すことはなかった。
恐らく、『幻燈』の全体的な主題は『盗作』において展開された「盗作と創作」をめぐる葛藤やアイロニーからは離れたところにある。しかし部分的なレベルにおいて、それは変質を被ったうえで保存されていたのではなかったか。
そのあらわれこそ、『幻燈』のアナログ媒体、デジタル媒体両方に収録された楽曲《451》である。《451》はその詞的世界において、「引火」という言葉でもって改めて「盗作」の問題を浮上させてみせた。そして問われねばならないことは、ここで「引火」という言葉が使われたことの意味である。
無論、それはタイトルから素朴に解すれば《451》の引用元であるレイ・ブラッドベリ『華氏451度』に対応した表現である、ということになるだろう。しかしこの楽曲の特異性は、そうした素朴な解釈をつねに超え出ていくかに見える。
Chapter-2:モンターグとn-buna
《451》をめぐって
ヨルシカ《451》は2023年3月8日に配信を開始した楽曲である。これは音楽画集『幻燈』への収録を前提にした配信であり、一か月後の4月5日には同曲を納めた画集が発売され、かつ、そのデジタル版が配信を開始している。
本楽曲を特徴づけるのは、なんといってもメインボーカルの変更だろう。《451》は唯一、コンポーザーのn-bunaが主要な歌唱を担当した楽曲であり、そうであるがゆえに、かつてなく異質な一作としてある。とはいえ、本楽曲の異質さはそこに留まるものではなかった。主題のレベルにおいても、本楽曲は異質なのである。
先に触れたように、《451》はタイトルが示すように、レイ・ブラッドベリによる小説『華氏451度』をその引用元としている。詳細は後述するが、《451》の詞的世界はそうした引用によって物語を仮構していた。しかし、それはこの楽曲の一面でしかない。
本楽曲の詞的世界は、他方では、明らかに『華氏451度』を超え出ている。そこで語られる物語、情感、夢は、引用元の小説に依拠しながら、また作家n-bunaの「声」において歌われていながら、根本的なところでそれらを燃やし尽くすような運動としてあるのだ。
どういうことか。順を追って見ていこう。
まず前提を整理したい。『華氏451度』という引用元の存在、そしてn-bunaをメインボーカルに配するという特異性を素材としたとき、《451》は二通りの解釈が可能になるはずだ。すなわち、①『華氏451度』の主人公であるモンターグについての物語であるという解釈と、②n-bunaの「声」において語られるある種の私小説・作家宣言であるという解釈の二つである。そして前述の「根本的なところでそれを燃やし尽くすような運動」としてあるような《451》解釈は、そのいずれにも属さない第三の解釈としてある。
さしあたり、第一の解釈の解説から話を始めたい。『華氏451度』とはいかなる小説だったのか。そして、それに対応した作品としての側面をもつ《451》の内実とは。
夜半に燃えるワンダーランド──『華氏451度』について
レイ・ブラッドベリ『華氏451度』は、1953年に発表されたディストピアSF小説である。架空の歴史を辿った(あるいは、そのように見せかけられている)アメリカを舞台に、国家的な焚書が夜ごとに行われる管理社会を想定した同作は、焚書を遂行する「昇火士」の一人であるモンターグの目線から、アメリカの欺瞞と軋み、そして崩壊を描き出していく。その契機になるのは、「焚書」という主題からただちに推察できるように「本」であった。
「火を燃やすのは愉しかった」。小説冒頭に記されたこの感慨が端的に示すように、モンターグは焚書行為そのものに悦楽をおぼえ、焚書行為が生み出した、あらゆる情報、あらゆる娯楽が超高速で流れていく「超」大衆消費社会を、なしくずしに受容していた。しかし文学的な感性を備えた少女クラリスをはじめとする「豊かな」人々との出会いによって、自らが燃やしていた本のはらみもつ可能性に目覚め、その理想を胸に、本を燃やし続ける都市そのものから脱出をはかることになる……。
一見して分かるように、同書はきわめて規範的な教養小説の筋をとっている。説話、と言い換えてもいいだろう。一方に「悪」の都があり、一方に、それによって圧殺されようとしている「善」なるものがある。知らず知らずのうちに「悪」の体系に組み込まれた個人は、なにがしかの経路によって少数の、かすかな「善」に目覚め、よく生きなければならない。この小説を根本的なところで規定しているのは、そうした説話構造である。それは同じくディストピア小説であるザミャーチン『われら』やハクスリー『すばらしい新世界』、そしてオーウェル『1984年』の戦略とは明確に異なる。全体主義的な国家やシステムに直面した個人の「絶滅」を描き出すそれらの作品にあったある種の頽廃や絶望は、ここにはない。
ヨルシカ《451》の軽やかさ、ディストピア小説に特有の陰惨さを反転させたような軽やかさを支えているのは、恐らくは、そうした絶望を問題としない「引用元」の姿勢であっただろう。詩の力を信じ、テクストの力を信じるモンターグの姿勢は、同時にブラッドベリの姿勢でもあった。
戦争で夫と分断された婦人に詩を諳んじるシークエンスは、そうした示唆をたぶんに含んでいる。「怖がらせてやりたいんですよ、ええ、ふるえあがらせてやりたいんです!」と、通信機を通して協力者に対して叫ぶモンターグに、もはや詩は単なる言葉の連なりとしては現れてこない。それは崇高そのものとして、一つの武器であると同時に救済の恩寵としてあるようなものとして見出されている。そしてそれが現に婦人に対し効果を及ぼすという話運びのうちに、われわれはモンターグの幻想が、ブラッドベリにも共有されているさまを見ることができる。
そしてそうした幻想のうちにあるモンターグの恍惚は、ある意味で、小説冒頭に示された焚書の恍惚と同型のものである、と言うことができる。少なくとも、都市において彼が抱く本・テクストに対する狂熱は、静的な思考を基幹にもつものではなかった。彼は言わば昇火士として、炎を奉ずるひとりの公人として、本を擁護したのである。
《451》が取り込み、表現するのは、そうした批評的視座に他ならなかった。先に引いたサビの歌詞の手前にはこうある「指の先で 触れた紙が 一つ 遂に燃えた」。これをサビの予告として見ることは可能であるはずだ。焚書であり、かつ本への偏愛でもあるような、絡まり合った狂熱を描き出すこと。それこそが、ここにあってn-bunaが志向していたものだったのではないか。
しかし、そうした解釈には瑕疵がある。この視点では、先に続く歌詞を掬い上げられないのだ。
モンターグは小説において、反逆者として追い立てられることになる。しかしそれは断じて、彼の放った言葉自体が危険であるからではなかった。彼はメディア的な危険性を帯びた存在ではない。彼はその能力によって指弾されるのではなく、その存在によって、逸脱者としての性格のみによって指弾されるのである。ゆえに、ここで語られていることとモンターグとの間に、少なくとも直截的な対応関係は成り立ちえない。よって、解釈の視座の転換が必要になる。
②n-bunaの「声」において語られるある種の私小説・作家宣言であるという解釈。それを援用することで、上に引いた部分は解することができるようになる。なるほどモンターグはメディア的存在ではない。大衆消費社会に自らのイメージを流通させるには、その存在は、その言葉は、あまりにも弱すぎた。しかしn-bunaはそうではない。彼はつねにメディア的存在であった。
メディア的存在としてのn-buna
2012年、《アリストラスト》をニコニコ動画に投稿するところから活動を開始したn-bunaは、2010年代のボーカロイド・シーンを代表する存在としてつねにその存在が意識されてきたボカロP(=コンポーザー)であった。2013年《透明エレジー》、2014年《ウミユリ海底譚》、2015年《メリュー》・《アイラ》、そして何よりも、2014年《夜明けと蛍》。その前後に活動しており、現在メイン・ストリームでも著しい活躍をしているキタニタツヤ(こんにちは谷田さん)やsyudouといったアーティストたちとは異なり(相対的なものではあるが)、その躍進ぶりはヨルシカ結成前、今日に至る以前から際立っていた。
しかしボカロPとしての出自をもつクリエイターたちが次々と生の顔をメディアにさらし、活動を行い始めたのに反して、n-bunaはそうした「顔出し」から距離を取ってきた。無論、顔出しを行わないクリエイターは伝統的に存在してきたし、特に今日では珍しいものではない。しかし顔を隠す、という行為は、ある種のオブセッションとして、しばしばヨルシカの楽曲において主題化されているのだ(*2)。n-bunaにとって、「顔」は、単に隠して事足りるような対象ではない。そしてそれは、恐らくは、メディア的存在としての自己への省察とかかわりあっている。
自らの言葉を露出させつつ、顔と姿を隠蔽するということ。そしてそうした操作のうちに成立した作品において、作家の模像として詞的世界に登場する「僕」に相当する存在が「幽霊」として設定されているということ(《雲と幽霊》ほか)。このねじれは詞的世界に部分的に投影された「自己」をめぐる葛藤に浸潤されているかに見える。ヨルシカにおけるn-bunaの歩みは、そうした括弧つきの、ある限定された世界における「自己」イメージを遇する試みの道程でもあった。
そしてその極北において、すなわち《451》において、n-bunaは「声」を露出させた。無論、いくつかの配信やその他メディアにおいて「声」はすでに露出しており、われわれはそれに触れることのできる状況にはあったのだが、とはいえ、それが作品として、すなわち詞的世界を構成するファクターとして現れたことには特別の意味がある。「ほら 集まる人の顔が見える 俺の蒔いた炎の 意図を探してる」。n-bunaがそう歌うとき、われわれはそこに、詞的世界を超え出たものを見出してしまう。すなわちここに至るまでの、n-bunaの十年の歩みを。あるいは、それをアイロニカルに批評し再構築してみせた『盗作』の影を。
『盗作』のラディカルさは、n-bunaがメディア的存在であることを鑑みるとさらに際立つ。というのも、自らの作品が盗作である可能性を晒すということは、深く、作家としての実存を危険にさらす行為であるからだ。そしてそれが敢行されたことの由縁を、われわれが知ることはない。
《451》の歌詞は、こうした構造に対する自己言及としても読むことができる。自らが放った言葉を触媒に燃え上がる世界を、『盗作』のリリースによって作品たちが不可逆の変化を被った世界を、自らの声においてあざ笑うこと(=「見ろよ 変な奴らだ」)。それはアイロニーとして成立していた『盗作』へのアイロニーである。
自らの参照・引用が「盗作」的な営為であることを提示しながら、さらにそれを裂開させるというこの態度のうちに、n-bunaの私小説的な言明、作家宣言を見ることは十分に可能である。
Chapter-3:Ignition parallax
陰謀遣いの一撃──壱村健太『エンキリディオン』以後
上に検討してきた二つの視座は、一見すると、決して混じり合うことのないものであるかのようだ。モンターグはn-bunaではないし、n-bunaはモンターグではない。どちらかの主体を論理の中枢に据えたとき、どちらかは剥落する。そしてそうである以上、二つの論理はスタンドアローンに立つしかない。
しかし、本当にそうだろうか。この二つを結び合わせる回路はどこにも存在しないのだろうか。そうではない。先に立てておきながら、ここに至るまで留保しつづけた問い──なぜ《451》は引用でも盗作でもなく「引火」という言葉を用いたのか──において、問いに応答するところにおいて、この二つは結合することになるからだ。否、それだけではなく、あらゆるものが、この「引火」において一つになる。そのような可能性の条件として《451》はある。
そしてそれを探るうえで、壱村健太氏の批評は有効にはたらきうる。
2022年、第五回すばるクリティーク賞(現在は休止)の最終選考に「まなざしの煉獄、あるいは金属バットの哄笑ービートたけし試論-」で残りかつ賞自体に落選したことによって、つまり文壇に拒まれることによって文壇に登場した書き手である壱村氏は、2022年12月3日、紆余曲折ののちに「ごくごくインディーな批評サイト」週末批評に『《エンキリディオン Enchiridion》——山上徹也容疑者の未発表論文「哄笑」を読む』を掲載し、インターネットの言説空間に参入した。以後、『陰謀論者の夢──アーレイ・バーク試論』や『多摩川から考える』などの批評を発表し、現在に至っている。
その批評をしるしづけるものはさまざまだ。先に引いた杉田俊介による講評の表現の他には、例えば陰謀論的想像力がある。陰謀論者の理路と関係妄想的な饒舌を俯瞰的な位置から取り込むことで、一見関係ないはずのトピック同士がひとつのテクストに統合されゆく過程を可能にする想像力が、その批評には共通して見出せる。
しかしここでは「射殺」のオブセッション(強迫観念)という一点に注目したい。『エンキリディオン』から一貫して、壱村氏の批評にはそうしたオブセッションが、「射撃」ののち、対象が絶命することへのオブセッションが見出せる。
その最大のものが、2022年7月8日に発生した安倍元総理銃撃事件への、ほとんど偏執といっていいほどの関心である。それは具体的なレベルでは、群衆の中から人間が人間を射殺するという行為であり、象徴的なレベルでは、さまざまの問題を抱えながら、戦後最長の歴任期間をほこった一国の元総理を、名前も顔もない、世に見捨てられた一人の男が射殺したという事件であった。壱村氏の批評はこの二つのパースペクティヴを時に嘲笑するように、時に深刻そのもののように攪乱しながら、日米関係をはじめとする戦後日本を構成するあらゆる状況を件の銃撃事件(の構造)へと収斂させていく。
とはいえ、その批評はいわゆる「社会批評」ではなかった。それはいささかねじれてはいるけれども、あくまでも「コンテンツ批評」としてあらわれていた。スティーブン・スピルバーグや東浩紀、北野武や杉田俊介らにまつわるコンテンツを横断的にまなざすことで、ある状況の核心にある究極的な一点=失語状態(クリティカル・ポイント)に至ること。それを志向するコンテンツ批評として。
一見するとこうした壱村氏の批評は、《451》およびヨルシカとは何のかかわりもないかにみえるばかりか、何の共鳴も起こしようがないように見える。しかし「射殺」は、そしてそれに根差した暴力の感覚は、しばしばヨルシカの楽曲にあらわれたものでもあった。
マシンガンとしての人生、あるいは伝達をめぐって
一枚目のフル・アルバム『だから僕は音楽を辞めた』に収録された《夜紛い》を特徴づけるモチーフは「マシンガン」である。人生を含めた一切を消し飛ばす全体論的な暴力の象徴として、あるいは「君」に風穴を開ける(=なにがしかを伝達させる)ものの象徴として、マシンガンは見出されていた。夜に扮するものの内省。しかし感性に居直ることを拒絶する態度(アティチュード)(=「名もない花が綺麗とか そんなのどうでもいいから」)。射撃そのものが物語を駆動するという構造。いささか牽強付会であることを承知で「盗作」的なモチーフの探究を行うなら、これはマーティン・スコセッシの映画『タクシードライバー』への参照をうかがわせる曲としても成立しているように思う。
閑話休題。こうしたモチーフを前面化したアルバムとしても、本稿で幾度となく取り上げている『盗作』はあった。
『盗作』がその手法・方法論において「引用」へのアイロニーとして成立していたことはすでに述べた。それは手法のレベルでの主題としてあるが、他方、メッセージのレベルでの主題には、《夜紛い》で「射撃」に凝集されることになった全体論的な暴力性が据えられていたのだ。
部屋を、街を、夜をすべて吹き飛ばすことを夢想する《爆弾魔》(『負け犬にアンコールはいらない』からの再録)、偽物(レプリカ)としての自意識を抱えたものたちの突発が感傷に、感傷が突発へと変転する(=「すぐに誰かを殺せればいいぜ 夏の匂いに胸がつまっていた」)《レプリカント》、詩作と強盗的暴力、世界への呪詛が並列されたうえで、尾崎放哉の引用とともに叫ばれる《思想犯》。「犯罪」を全体の主題とする『盗作』(*3)は、ヨルシカのなかでも他に類を見ないほど暴力性を前面化した一作だが、それは彼らの根本的な作風とも通底しているところがある。感傷性と暴力性の相剋。そもそも先に触れた通り、本アルバムの暴力性を象る《爆弾魔》は再録である。ヨルシカはキャリアの初期から、暴力に対する切実な感覚を主題に据えてきたプロジェクトであった。
そしてここにおいて決定的に重要なのは、そうした暴力的なものにかけられた切実さが、引用(=盗作)において縁どられ、伝達されているということである。
《爆弾魔》はともかくとして(*4)、《レプリカント》はフィリップ・K・ディックによる『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』およびその映画化・翻案としてのリドリー・スコット監督『ブレードランナー』の引用によって成り立っているし、《思想犯》はオーウェル『1984年』の参照であるとn-buna自身の口から語られている。MVに登場する意匠は『1984年』からの如実な影響をうかがわせる『Vフォー・ヴェンデッダ』のものであるし、その詞的世界全体は詩人尾崎放哉の生涯と詩作によって縁どられている。そしてそうした絶えざる引用の連鎖において、「盗作」をなす音楽泥棒の手管において、ある種の暴力性は伝達されるのである。
ひるがえって壱村健太氏の批評もまた、そうした引用の連鎖において成り立っていた。『エンキリディオン』は66もの注釈が示すように、膨大な引用によって形作られている。それは時に文脈から逸脱した表現を、ほとんどコラージュのように呼び込むこともあるが、それは「博覧強記だけどたんなる言葉遊びではない」(*5)。引用「と批評との中間形態、いわば『秘められた批評』とでもいうべき」(*6)切実さをたたえたテクストとして完成されている。
では、そこに秘められた内実とは何だろうか。技法としての「引用」において、壱村氏は何を語っていたのか。
『エンキリディオン』を例に取れば、それは主体の仮構、ということになるだろう。論は哲学者の仲正昌樹の個人的な経験を追跡するところから始まり、山上徹也の遍歴へと合流し、そののちに杉田俊介のキャリアを侵襲し再配置する。そしてそうしたプロセスを要請させたひとつのロジック──第五回すばるクリティーク賞落選作「まなざしの煉獄」が山上によって書かれたものであるというロジック──が端的に嘘であることを突きつけることで、真の著者は著者自身の遍歴を語り始める準備を整える。
ここでは語りの主体が高度に多重化されている。『エンキリディオン』はリーダビリティを犠牲にすることなく、論を成り立たせる主体(たいていの場合それは「論壇」の人物だ)を何度となく交換することに成功していた。そしてそれを可能にしているものこそ「引用」なのである。
言葉は基本的に属人的なものである。主語があり、述語がある、この基本的な言語構造は、ある一人の主体において言葉が語られるという原則を規定し、また強化している。しかし「引用」はそれを裂開させる。パラグラフの内部においてさえ、「引用元」が分裂しているというこのテクストの構造は、ただひとりの語り手の存在を後景化させる。
しかし『エンキリディオン』は、その後景化によって、ただひとりの語り手を召喚するのである。それは同時に「仮構」でもある。幻影としての、概念的なものとしての主体を作り上げること。その素材は、主体の基礎を突き崩すような引用の連鎖だ。
こうした主体の仮構という手管は言うまでもなく特異である。しかしその特異性は、ヨルシカの異質さと並置しうる。より正確に言えば、その特異性とは、ヨルシカの特異性でもある。「引用」を梃子に、壱村の批評がはらみもつ方法論とヨルシカ《451》は交叉させることができるのだ。
《451》の詞はモンターグについてのものである一方で、作家n-bunaについて語るものでもあった。ここでは二つの主体が想定されている。しかし『盗作』を踏まえるなら、《451》が引用によって成り立っていたことを鑑みるなら、その主体は必ずしも自明なものではない。二つの主体は、強固な実在としてはない。絶えず交換・交代が可能なものとしてある。仮構としての主体の座にあるときは座り、あるときは離脱することが可能なものとしてある。『エンキリディオン』がそうあったように。
そしてそこにおいて伝達されるものがお互いに「暴力性」であることを鑑みれば(《451》の詞的世界もまたその系譜に属する)、「引火」の意味も明瞭になる。引用=盗作=引火の図式。それは論の対象としたものを、未だ見ぬ論の読み手を、そして他ならぬ著者自身を焼き尽くす図式である。世界のすべてが燃え上がり、その光の、熱のうちにひとつになるということ。それはそれ自体が抱え込んだ圧倒的な危険性に反して、伝達ということの本質に迫っている。なにかが伝わるということ、なにかが我がこととして感覚されるということは、対象を燃やし尽くすということなのだ。伝達は、そうした「炎上」のうちに際立つ。それを仮構しうるシステムとして「引火」はある。
《451》は、そのような方法論・システムの実験として機能していたのではないか。
Chapter-4:灼け落ちない「石」をめぐって
人はヨルシカの「物語」に、提示された詞・言葉の間隙に、隠された真実を見出そうとするだろう。それはある意味では正当な消費行動だし、彼らはそのようにして作品を世に問うている。しかし僕はそうした収集にではなく、現にある音楽それ自体、引用の連なりそれ自体に価値を見出したい。引用は、自己の思考を外の文脈において補強する作法である。つまり著者の思考それ自体は、引用の前後にある。より突き詰めて言えば、引用からは物理的に離れたところに存するはずだ。しかしヨルシカの作品のうちに、あるいは壱村健太氏の批評のうちにあるのは、引用において著者の思考が立ち上がるプロセスなのである。彼らは引用においてなにがしかを語る。そしてそれは、同時に「引火」でもある。オリジナルを触媒として燃え盛る言葉。それはやがてオリジナルを観念的な意味で灰に変え、世界を焼き尽くしたのちに消失するだろう。引火とはそのようなものである。それは自らの言葉ではないがゆえに、絶えず主体を隠蔽するがゆえに「なにか」を伝達してしまう。
紙は燃え、内容とともに消失する。デジタル・データの不朽が無邪気に確信できる時代は終わった(=「サイバーパンクは電気が消えたら終わり」*7)。では、石はどうだろうか。石に刻まれた言葉が、そしてそれに根差した意志が、消えることはない。
しかし燃えることのない石は、上述のような伝達ということの本質には至れないのではないか、という危惧も、同時に成り立ちうるだろう。消えない代わりに黙する構造体。石はそこに留まるしかないのだろうか。
本サイト:net stonesは「情報が流れるままのネットメディアに批評の石(意志)を置く」ことを目的に創設された。それは石と意志への確信に依って、石的なものをデジタルに仮構する運動であり、意志をそれが生起した時空間たる原位置から絶えず転がし、世に問う運動でもあったはずだ。それはネットメディアの特性上、石そのもののありかたからは離隔せざるをえないが、そうであるがゆえに石を超越した可能性をはらみうるだろう。
燃えることのない石が、ある状況との連関のうちに燃え、「どこか」へ「なにか」を伝達することへの希望。それはヨルシカが常に提示しつづけた希望でもあったように思う。
ヨルシカはアルバムの幕を、すべてを歌いきることによって下ろす。ヨルシカのアルバムは、決定的な終わりを内包している。しかしそうした終わりは、活動の継続というかたちで次の始まりの呼び水となり、繰り返されていく。絶えざる終わりの連続。しかしそこにこそ、われわれにとっての希望がある。そのたびごとの終わりをまなざすための歌。そのための言葉。その極北に、「引火」と《451》はある。
参考文献・サイト
・レイ・ブラッドベリ(伊藤典夫訳)『華氏451度』(2014年、ハヤカワ文庫)
・宇野常寛『日本文化の論点』(2013年、ちくま新書)
・「ヨルシカ、n-buna初ヴォーカル楽曲「451」を聴ける画集『幻燈』から先行リリース」(https://skream.jp/news/2023/03/yorushika_451.php )
・「ヨルシカ-アルバム「盗作」特設サイト」(https://sp.universal-music.co.jp/yorushika/tousaku/ )
・壱村健太『《エンキリディオン Enchiridion》——山上徹也容疑者の未発表論文「哄笑」を読む』(2022年、週末批評 https://worldend-critic.com/2022/12/03/enchiridion-ichimurakenta/ )
・壱村健太『陰謀論者の夢──アーレイ・バーク試論 (1)霧、襲来』(2023年、週末批評 https://worldend-critic.com/2023/07/08/dream-of-conspiracy-theorist1/ )
・壱村健太『陰謀論者の夢──アーレイ・バーク試論(2)shoot:射撃/撮影』(2023年、週末批評 https://worldend-critic.com/2023/07/08/dream-of-conspiracy-theorist2/ )
・笠井潔・巽孝之監修/海老原豊・藤田直哉編『3・11の未来 日本・SF・創造力』(2011年、作品社)