オモニ(母)の重荷
田房永子さんのエッセイ漫画「母がしんどい」を、中野の本屋で立ち読みしたときの衝撃は今も忘れられない。表紙に描かれた、母親に肩を抱かれて、なんとなく居心地の悪そうな表情の主人公と、そこに描かれた母親との葛藤と、娘として感じてきた重たい感情は、まさに自分のことではないかとびっくりし、即購入。その後自分の体験と重なる部分には三角の折り目をつけ何度も読み返した(今もトイレに置いてあり、ことあるごとに読み返している)。
そう、ヘレンケラーが「ウォーター」と叫んだように、「母がしんどい」に出会ったことで、「私は、母がしんどかった、と言っていいのだ!」と知ることができたのである。それまで、そういうことを思う自分がおかしいのだろうか、娘として母親のことを、やばいと思うことは許されないのではないか、恥ずかしいことなのではないか、と思っていた私にとって(今も「恥ずかしい」という思いは強くあるが)、この衝撃は凄いものだった。
田房永子さんと私は、生まれ育った時期がほぼ同世代。母親が専業主婦で父親が育児のことにはまるで無関心、父親が母親のヤバさについて鈍感過ぎるというか寛容過ぎるところ、母と子の関わりについては、(明らかにヤバいことが家庭内でたくさん起きていたにもかかわらず)父親があまりにも良い方に捉えすぎており、その上、育児に全くノータッチだったため、母親の暴走を止める人が誰もいなかったというところまで、驚くほど一緒であった。
母親との思い出や家族との関わりが苦しかった(というか今でもありありと幼少期の苦しみが思い出せるほど苦しい)のと、母親のせいだけではないが、そもそも自分自身が「女性らしく生きる」ことからあまりにも遠い人生を送ってきたため、自分が母親になる、という選択肢が人生にあると全く思えなかったし、今もそういう願望が非常に希薄なのであった。
しかし、そんな風に「女子市場・母市場」みたいなものからすこぶる遠いところにいた自分(雑誌隆盛時代に青春時代を送ったが、これまで女性向けのファッション雑誌などを自分用に買ったことが人生で一冊くらいしかない)が、ひょんなことから数年前に結婚し、現在、なんと妊娠7ヶ月である。妊娠したことを知った時は、素直に嬉しかった。子供を一生持たない可能性もあると思っていたけれど、夫がとてつもなく家族を大事にする家族で育った故に、その家の嫁としては(普段は嫁的なこと一切が苦手すぎて、何もしていないのであるが・・)いくら自分が「明るい家族計画」に対して積極的になれないとはいえ、このまま夫婦だけの生活でいいのだろうかと、何年も葛藤していたからである。
そして今、妊娠すればいわゆる「母性」というものが溢れ出て、母親らしくなるのだろうか・・・これまで子供を持つことに積極的でなかったとしても、何事もなかったように楽しい子育てやハッピー家族構築を夢想、積極的に「おにぎらず」などの手料理をアップする自分を思い浮かべることができるのか?なんて思っていたが、そう簡単ではなかった。
そんなわけで、子供が生まれてしまったらもう二度と「生まれる前に何を考えていたか」を思い出すことは難しいと思い、その葛藤を記そうと思います。