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母の脳内にはいつも母しかいない
なぜ母親が要らないものを大量に、少量だとしても本当に要らないものを送るのか問題、思いのほかアクセスが増えている。
幸運にもまともな親に育てられた方は、恐らくこの嫌さというものがどうにも分からないはずである。
あるいは「そんなヤバ母に育てられて気の毒!
よく生きてられるわね、おかわいそうに…お気の毒様…」と憐憫の情(ちょっと半笑いで)を向けているかもしれない。
母親の一方的な行動の問題点、それは結局のところ母親の脳内には母親しかいない、それゆえに行動が常軌を逸しているとしても、
「母の愛」「家族のため」というようなキーワードをかくれみのにして、堂々と長期にわたり行動のおかしさが放置されてしまうということなのではないかと思う。
母親が大量の果物を送ることや、ダサすぎる靴下を欲しいとは言ってないのにくれること(実話)
一見、子供のために何かをしているようで、
実は本人が思いつきでやりたいようにやっているのだが、たいてい「子供のため」というポーズを、絶対に、ずえったいに!(ハイスクール奇面組風)崩さない。
母は私が望んでいることをやってくれるとは限らない、ということと、
一方的な行動に嫌気がさして、こうしてほしい、とこちらから依頼をすると、むげに断られたり、ぞんざいに扱われたりすることが、なぜか当たり前にある、ということがとても辛かった。
まるで「子供のために」やっている、ように見せるけれど、母の脳内には、母しか存在していない。母から見える娘は、母のフィルターをかけた、実態とは違う都合の良い何か別の存在なのである。自分のことは見ているようで見ていない。監視はするけど何を必要としているかは分かってくれない。実際の自分とは違う、母親の脳内にいる誰かを見ているような感じがいつもした。
徹底的に、子供の感じる違和感を消してしまうのだ。そして、子供が成し遂げたこと(自分はやってなかったけれど、部活動の記録とか、受験の結果とか)それだけはすべて「母の手柄」にしてしまう。
皮肉だが、そのゆがんだ編集技術は神がかっている。
子供が感じる違和感や、母への不満は、綺麗さっぱり「なかったこと」になるのだ。
今思い返してもわたしはずっと違和感があったし、必死に不満を伝えていたつもりだったが、いつも「なかったこと」にされてしまった。
そんな関係性の記憶は、いくつになっても、なんだかとてもつらいのだった。
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