女子と料理力(4) 台湾で過ごして本当に驚いた・・・一度も自炊をせずに暮らせた!
日本における、女性が美味しい料理を作り、男性が頑張って仕事をして、妻と子供を支える、子供の世話はほとんど女性が見る、というような文化というか慣習に強烈な違和感を感じていたものの、まあ、そういうものなのだろう、と思っていた。当時の自分は、母が渾身の手作り料理を頑張ってくれていたことへの疑問を感じたことは、なかったと思う。
大学時代に、英語ができる人が周囲に多すぎたために英語の勉強からはぐれ、中国語を勉強したいと思うようになった。当時お世話になった先生が、台湾に留学した経験のあった先生で、彼女が中国語の授業を担当していて、応援してくれたこともあり、北京のサマープログラムに1ヶ月参加し、台湾には交換留学生として9ヶ月ほど短期留学をした。北京でも、台湾でも、圧倒的に安く外食ができる中華圏の人々の、のびのびとした暮らしぶりを目の当たりにした。日本では数個入っているだけの、せいろで蒸された本格餃子が途轍もない数でセイロに入っていた北京の衝撃。日本人留学生の友人と一緒に餃子を頼んだ際、1セイロ3個くらいだと思って4セット頼んだらひとつのセイロに15個くらい餃子が入っていたために、60個くらいきてしまった。いきなり全員がフードファイターにならざるを得なかったことも懐かしい。あの時一緒に餃子を食べた友人たちはどうしているのだろうか。当時はメールすら当たり前に使っておらず、帰国後、本当に一切連絡を取っていない。
日本で当たり前に信じていた、女性が毎日食事を作り、男性が女性と子供を養う、という根強い価値観は、共働きが多い中華圏では、当たり前ではなかったのだと、日々、衝撃を受けた。
その経験から、日本の「母親が毎日料理をして家族を支えるのが当たり前」文化に圧倒的な違和感を覚えるようになってしまった。(ただし今は食の安全への懸念から以前より自炊をする台湾人も中国人も増えているという記事も読んだので、これはあくまでも20年以上前の短期滞在の思い出であります)
台湾はおそらく、世界有数の外食大国だと思われる。今ではしょっちゅうバラエティ番組などで台湾が出てくるので、テレビで見たことがある人も、実際に観光や留学で行ったこともある人も多そうだが、自分が台湾に留学した2000年代前半の頃は、台湾の文化やパールミルクティーの存在を知っている人も周囲にはあまりおらず、中国語を勉強したいと思っている人も少なかった。特に、英語圏で学ぶことに絶対的な価値があるような雰囲気が濃厚だった大学において、留学先の選択肢としては、台湾はかなりマイナーだった。当時は、自分があまりにも「どあほう(©️スラムダンクの流川楓のセリフ)」だったために、全然、理解していなかったのだが、日本の大学からの交換留学の価値は、現地で学費を払ったらとてつもなく高額かつ留学自体のハードルが高いアメリカ(など)の名門大学に、日本の大学への学費及び大学内の要件を満たせば留学できる、ということに重大な価値があったわけなので、台湾に交換留学で行くというのは、費用面では逆に高くついてしまっていたし、(なんと自分が通っていた台湾の大学附属の語学学校の学費は、日本で払った学費の3分の1以下だった!)交換留学の価値を最大限に見失っていたと言わざるを得ない。今になっては本当に台湾に行って良かったと思えるし、交換留学生という立場だったおかげでTA(ティーチングアシスタント)にもなることができて、日本語だけで講義をする授業も毎週一コマ持たせてもらっていた。その経験は今にして思うととても楽しかったので、交換留学生として留学をしたことは本当に良かったと思う。
今は、20年前とは世界情勢が変わり、中国語圏に留学する人は増えているらしい。韓国のポップカルチャーが爆発的にヒットした影響で、日本から韓国への留学希望者も増加していると聞いた。
たった20年弱で、世界はとてつもなく変わった。
台湾に留学をして中国語を学んだ9ヶ月弱、一度も自炊をしなかった。そもそも最初に入った台湾の大学の学生寮(4人部屋!)には、キッチンが存在しなかった。ほぼ全ての食事を、学生街や食堂で食べた。大学内の食堂の水餃子が皮から手作りだったのは、衝撃だった。おばちゃんが食堂の隅で、手こねで餃子を作っていたのだった。同じ語学学校に通っていた、フランス生まれの、香港人とフランス人のハーフだった美しい女性が、学生食堂の水餃子に夢中になって毎日のように食べていたことを思い出す。当時10元(=40円くらい)で10個くらい食べられた気がする。そして、台湾や中国では、水餃子はおかずではなく、主食なのだということも驚きだった。
その後、いろいろあって大学内の学生寮を出て、大学の近所の学生街で生活をすることになった。留学したばかりの頃に、同じ中国語の授業をとっていたクラスメートの香港人の女性が、香港に帰国するということになり、彼女に部屋を紹介してもらい、彼女が借りていた学生街の2階の部屋を引き継ぐような形で住むことになったのだった。彼女はなぜ同じクラスだったのだろうかと思わせるほどに中国語(マンダリン)がペラペラで、彼女の脳内は広東語のため、中国語(マンダリン)がとてつもなく早口で、彼女とのコミュニケーションには、若干苦労したような気がするが、当時すでに日本の学生寮で香港人との交流があったことなどが功を奏して、なんとかなったのだった。彼女に「大家さんと接する上で、わからないことがあったら、わかったふりをしないでちゃんと聞き返すんだよ」というようなことを諭すように言われたことを覚えている。自分は世界中で誰かに心配されている。
学生街の家の2階での生活は、形式上はホームステイ、のような形だったが、台湾の人との距離の近さというか、ゆるさもあいまって、割といい感じに放っておいてもらっていた。とても快適な日々だったのだが、大家さんだった家族が、家でご飯を作って食べている様子は一切、なかった。大家さん一家は4人家族だったのだが、ほぼ全ての食事はテイクアウトか外食だったように思う。自分も、9ヶ月の滞在中、お湯すら沸かさなかった。台湾では水道水を飲むことはできないので、熱水器という、お湯と水が出てくる、日本でいうところのアクアクララのような赤と青のワンタッチ蛇口がついた機械が家庭にも大学内にもいろんなところに常備されていて、それを使ってお茶やコーヒーを飲んだり、カップラーメンを食べたりするのだった。そのため、やかんでお湯を沸かす、というような行動すら、必要がなかったし、なんなら学生街に大量にあるパールミルクティーの屋台で、毎日のように飲み物を買っていたので、お茶を入れたりコーヒーを入れたりする必要すら、なかったのだった。パールミルクティー(珍珠nai茶)は当時、20元くらいだったような気がする。日本円で60円から80円くらいだった。こんなペースでパールミルクティーを飲んでいたら糖尿病になるのではないかと思って甘さを半分にしてもらった。甘さを半分にしてもらうときに言う、「半糖(バンタン)」という単語は、留学中一番よく話した中国語だった。