璦憑姫と渦蛇辜 4章航路①
海には道がある。海をつなぎ海を分ける道を海流、人が船で往来する道を水潮、竜宮に至る神々の道を沖津道という。
七千の島々を水潮で結びひとつの国と成して人の世が始まる。それより時をのぼり、沖津道に神々の渉を見たまだ神代と分かちがたき時代。北へ上る海流と南へ下る海流とが交わる大辻にひときわ栄えた土地の名を肚竭穢土と云った。
肚竭穢土から離れた諸島には、賽果座とそれに隣接する來倉があり、近海の覇権をめぐり長く膠着状態であった。
礁玉は賽果座と來倉の間に位置する小さな集落に生まれた。双方から攻め入られ、村にはたびたび戦火が及んだ。人魚の血をひく彼女は鯱の波座と共に育った。峡湾の狭い土地に張り付くように生きることにも、ふたつの勢力の間で日和見するしかないことにも礁玉は耐えられなかった。
波座を相棒に、生きる場所を海に求め海賊になった。海で彼女と波座に敵うものはものはいなかった。付近のはみ出し者を束ね、やがて西の水潮をおさえ両国にその名をとどろかすのにそれほど時間はかからなかった。
「武器は置いて行け」
奪った來倉の勅令船からワダツミとタマヨリは降ろされ、迎えに来た海賊のイカダに乗り移った。舵をとっているのはハトだ。
ワダツミは表情を変えず鉾を勅令船の上の夷去火めがけて放った。放物線をかいて鉾は甲板に突き刺さった。
「あっさり渡してくるのが不気味だ……」
そう云ってウズは鉾を抜いたが、重みで思わず尻餅をついた。とても片手で持てる代物ではない。
「娘の身寄りか確かめたいなんてどうせ口実だ」
「お頭、よく会う気になったな……」
とウズが云うと夷去火は海面を進むワダツミを睨みつけた。
「おかしな動きをしたらすぐに射かけろよ」
「了解。今度は波座がいる。海の上なら負けねえさ」
「当たり前だ」
夷去火はウズから鉾を取ると傷は癒えたというように、振り回してみせた。
「お前ら、お頭を怒らせるなよ」
イカダの上でハトが妙に甲高い声で云った。忠告のつもりだろうが凄みに欠けている。
「あっという間に波座の餌だ」
「うん大丈夫だ」
タマヨリは頬をつやつやさせ大きくうなづいた。今から海賊頭の礁玉に会うのが楽しみでしかたなかった。それに北の海でいちばん大きな白黒のサカナというのも気になる。
海からせせり立った溶岩質の孤島から礁玉を乗せた帆船が一隻向かってくる。帆に順風を受けこちらが進むより速く寄ってきた。同時にタマヨリはもちろんワダツミでさえ気がつかぬうちに、忍び寄った魚影があった。それがイカダの真横で浮上した。
「うわああ」
タマヨリが叫び声をあげると、ハトもつられて叫んだ。
「ぎょわわわ」
「怪物か!ハト!なんじゃこのサカナ」
「な、なぐらっ!これが、お頭の鯱だ」
鯱はその大きな体をみせつけるように船の周りを回遊した。
「でけえ!一口でイカダなんてかみ砕きそうじゃな!」
タマヨリがそう云った時、鯱は突如荒ぶった。真っ直ぐに狙いをワダツミに定め、その大きな躰で突進してくる。鯱の腹が頭上を通り、ハトとタマヨリは互いが息を飲むのがわかった。もう転覆はまぬがれないと思ったが、船は大きく揺れたが辛うじて保った。
ワダツミの姿はなかった。一撃を避けて彼は海へ逃れたがそこは鯱の世界だ。海中で鯱と対峙したワダツミは丸腰。
「戻れ波座!」
と礁玉が呼び掛けたのと、
「だめだ!」
とタマヨリが制したのは同時だった。鯱は牙を収め、主船のほうへと戻っていった。
「ワダツミ、大丈夫か?」
「支障はない。随分な出迎えだな。これが要らぬのか」
波を蹴ってイカダに戻ると、懐から宝珠を出してみせた。
「波座が昂っておったのでな」
よく通る声で礁玉が云った。
船首に立った彼女にタマヨリは見とれた。風をはらんだ帆を背に、黒髪なびく真っ直ぐな立ち姿が際立っている。横に控えた浪もほかの海賊もタマヨリの目には入らなかった。頬から鼻梁にかけ一文字に走る傷と双の眼の強さ、胸や耳を飾る装身具よりその眼の光の方が何倍も強い。
「それにあたしの部下が世話になったろう。礼をしないとな」
と礁玉は続けた。
「……なるほど」
二人の間に流れた緊張に、ウズは矢を構えた。
「お前!おれのお母さでないか?」
ワダツミの影からタマヨリは精一杯身を乗り出し叫んだ。
礁玉は怪訝そうな顔でタマヨリを見つめた。横から浪が経緯を説明した。
「おれは、タマ。タマヨリヒメだ。見覚えはないか?ここより遥か南の島に置き去りにされた」
身振り手振りを交え訴えかけるタマヨリに彼女は乾いた笑いで答えた。
「あいにく、子を産んだことは、ない」
ああ、と意気消沈してタマヨリは座り込んだ。
成行きを見ていたワダツミが宝珠を海賊船に向けて投げつけた。浪が抜け目ない動きで掴んだ。
「それはくれてやる」
「えーあげちゃうの?おれが海からとってきたんだぞ」
抗議する彼女の首根っこを摘まみ上げると礁玉に向けてかざした。
「それはやる。だからこいつも引き受けろ」
礁玉と浪は顔を見合わせた。
「ちょっと待てワダツミ!」
今にも自分を宝珠同様、海賊船に放りかねないワダツミの手の中で暴れた。
「お荷物みたいに云うなよ!おれだって世話してやってんだぞ、ほら、物々交換だって全部おれがしてるだろ!唄だって、頼まれたら断らねえだろ、それはおれが唄いたいからだけども!」
それから矢継ぎ早に罵詈雑言を吐いて暴れるのをタマヨリを「まあまあ」とハトがなだめるのもまるで聞かない。
「難儀だな。だが海賊に子守りを頼むなど前代未聞」
礁玉は呆れ顔ではねつけた。
「ではこやつの親探しに手をかせ。……お前、『中津海』にゆかりのものだろう」
「子守りに、人探し!お主は海賊がなんたるかを知らんのか?」
「その宝珠の値打ちに比べたら安かろう」
礁玉は海に飛び込んだ。控えていた波座の背に立ち、ワダツミと距離をつめた。
「あたしはこの波座と共に海に育った。死んだ祖母が『中津海』の人魚であったと云うものもおる。だがあいにく、あたしは海の中のことには興味がない」
そこまで話した礁玉の瞳の奥に熱を帯びた光がさした。
「我らは近いうちに來倉をおとす」
「來倉……」
「手を組め。それとも來倉に借りでもあるのか、傭兵だったのだろう?」
「……貸しならあるが、俺は陸のことには興味がない」
「ふうん。だが兵力が欲しい。お前が我らに付くなら、娘も引き受けよう」
もとは鳥のほか生き物のいなかった溶岩島に船をつなぎ、雨風しのげる砦を設け海賊達は根城とした。彼らは大きな船を持たない。いちばん大きいのは帆掛け舟だが、それは戦利品を積み込むためであり、複数の丸木舟で近海を航行する船に乗りつけ襲うのが彼らのやり方だった。波、風、地形、海流を知り尽くし群れで獲物を追い詰めて狩る姿は海の王者鯱そのものだった。
強奪された勅使船は島の湾に隠された。漕ぎ手達は、海賊の仲間になるか鯱の餌になるか選ばされた。国に戻っても厳しい処罰が待っている彼等は、故郷を目前にして全員海賊になった。複雑な隆起を利用してねぐらに設えた大きめの陥没に、彼等はまとめて放り込まれた。
陽が落ちかけると海鳥たちが一羽また一羽と巣へ戻って来る。鳥の影は岩肌を滑るように流れ、鳴き声だけ残し夕闇にはりつくように消えた。赤く染まる水平線近くに黒雲がわき、音もなく稲光がしきりに走っているのだけが彼等から見えた。別の場所では筋金入りの海賊達の宴が始まろうとしていた。鳥ではない影が彼等の頭上にさした。
くぼみからは見えないところで男と女の声がする。
「お頭!あんな奴、なんで仲間に引き入れんだよ!」
猪去火の憤懣やる方ない声に礁玉はうるさそうに手をヒラヒラさせた。
「仲間なんて思わなくていいさ。あたしらはあの男を利用する。それだけだ」
「利用するといっても危険すぎる。私も同意しかねる」
二人の後に続き宴を抜け出してきた浪が云った。
「猪去火、浪。あんたらは強い。腕っぷしならこの西の海で誰より強い。でも二人してあの男に歯が立たなかった」
猪去火の奥歯がきしみをたてた。
「別に責めてるんじゃないよ。あんたらはお使いをちゃーんと果たしてくれた。だから、あたしらは『次』に取り掛かれる。使えるものは使う。あんたの頭と一緒」
と浪のひたいをぴんと弾いた。
「危険だというなら尚更、こちらで抱え込んだ方が得策だ。下手に他国に取られたら…」
分かるだろう、と目で云われ二人は黙るしかなかった。
「ふふ、いざ邪魔になれば寝首のひとつやふたつかいてやるさ」
礁玉の笑みには人の心を掠めとっていくような艶があった。
「ああ」
と猪去火はうなづく。浪は深く息を吐くと、
「お前、私が賽果座に行っている間、お頭のことはくれぐれも頼むぞ」
「誰に向かって云ってるんだよ。お前こそしくじるなよ」
「誰に向かって云ってる」
と笑った。
「猪去火。ハトやウズあたりにも承知して欲しいのだが」
礁玉は日暮れようとする海を見た。
「娘に気をつけろ」
「男ではなく?」
「あのうるせえわっぱがどうしたって?」
礁玉は波座の行動を思い返していた。いつもなら、言葉を交わさずともお互いがお互いの心の動きを察することができた。それは自分のもうひとつの心といってよいほど強く結ばれていたはずなのに、あの二人を前に波座と自分を繋げた糸が切れたようだった。波座はワダツミに殺意を示した。男の持つ何か禍々しいものがそうさせたことは、分かる。しかし、タマヨリに示したのは服従だった。海の頂点に立つものが何を恐れたというのか。
あの時、娘の声で波座は止まった。
―あたしの声ではなく。
思えばあれはワダツミから娘を『取り返えそう』とする動きのようでもあった。あの時の波座の心を礁玉は知ることができない。
「男に訊いたところ、娘は『中津海』の者でないかという。歌声で船を誘う人魚がいると話にはきくが、それができると奴はいう。ただ、あたしの勘だが、娘は『真海』さもなくば『下海』……、その血かもしれん」
そうでなければ波座が服従などしない。
最後の言葉は胸のうちで云うと、猪去火の肩を叩いた。
「というわけで、お前が今日から子守だ」
「なんで俺が!」
彼女は肩に置いた手に力を込めた。
「何かあれば首を落としてでも止めよ。あたしと波座ではそれができるか分からぬ」
「何かって、なんだよ」
「何かだ。異変を感じたらすぐでよい。水を操るという男より、娘の方がはるかに手強いかもしれん…」
宴の席では男達の声に混じって、タマヨリの子どもらしい甲高い声が響いている。礁玉はさっと身を翻し戻っていった。
「お頭さ、たまにわけわからんこと話さないか?」
猪去火が怪訝な顔をするのに、
「海の血だろうな。だがあの人の勘は何かにつけ当たる。どちらにしても、厄介なものばかり引き受けたものだ」
と浪が答える。
「まーさかと思うけど、あの男に惚れたってことはねえよなぁ」
考えなく猪去火が吐いた一言に、二人は「あ⁉︎」と顔を見合わせた。
続く