璦憑姫と渦蛇辜 5章「いさら」④(第1部完)
「てめえ、馬鹿!なにすんだ!」
船を漕いでいた夷去火は突如海中からあがった水柱に翻弄されながら、ワダツミに向かって怒声をあげた。
「それか!タマヨリ!」
ワダツミの視線はタマヨリが抱えた儀仗をとらえている。
「ワダツミ!」
久しぶりの再会を喜ぶ様子ではないことはわかったが、思わず嬉しそな声が出てしまう。
「おい、俺は無視か!いい度胸だな!」
まるで相手にされない夷去火は怒り心頭な様子だ。
「小童には似つかわしくない得物だな。名は?」
「『いさら』だよ。なんだか知らないけど剣自身がな、そう云ったんじゃ」
「いさら波とは、霧のようなさざ波だ。そんな稚気なものには見えぬが」
「でもな、『いさら』は話しかけると波音がするんじゃ」
「何を話しおうたと?」
「お父さとお母さのいるところ!そうだワダツミ、おれの親は生きとるんじゃと!」
「……お前の親が」
「阿呼が視てくれたんじゃ。どこに居るんかきいたら、『いさら』がざざんざざんに混じって西と云ってくる」
タマヨリは顔を紅潮させた。
「おれ、会いに行くことに決めた!」
「ほんとうかい?」
追いついた礁玉が波座の背に立ち上がった。
「礁姐!ほんとうだ。生きてるって云われたんじゃ」
「お頭!早いお戻りで!」
夷去火が大声で云うと、片手を上げて礁玉はこたえた。
「留守の預かりご苦労であった。宮中でのことタマの処遇はきいておる」
彼女はタマヨリに向き合うとにやりと笑った。
「あんた、敵の兵士一網打尽にして宮中の奴にびびられて追い出されたんだって?」
タマヨリはもじもじすると、まあそんなところだとつぶやいた。
「ははは、とんだお転婆だね。あたしもあんたの年には波座と二人で船を沈めていたからな、末が頼もしいなあ」
「礁姐、おれ、ほんとうはやるつもりなかったんだ」
ん?と云って礁玉は首をかしげた。タマヨリの云おうとすることを察したが黙って待った。
「死ぬ……と、死んじまうなんて思ってなかったんだ……」
「まあ、」
礁玉は少し考える素振りをみせると、
「あんたはそう思った。結果は違った」
と云った。
「なあタマヨリ。海や自然は取り返しのつかないことをしてくる。でも誰も海に何か負ってもらおうなんて考えない。海も自分のしたことの結果を思うことはない」
礁玉の云うことにタマヨリはぐーっと眉根をよせた。
「でも人は何かしたら結果を負う。思ったことと違ったって、それからは逃れられない」
「礁姐、よくわかんねえけど……」
「簡単に云うとだねえ、あんたが人として生きたいか、人ならざるものとして生きたいか、だ」
「……おれはずっと人だよ」
やれやれというように礁玉は口元を歪めた。タマヨリはしばらく考えていたがぽつりと云った。
「……おれが何かするとな、人が死ぬんだ」
「そんなこたねえだろう」
と夷去火に云われても首を振った。
「おれがワダツミを助けたらおれの村に病が流行ってたくさん死んじまった、家族もなくした、そんでおれ、そういう悲しいのはもう嫌だったのにまたたくさん死んだ、阿呼は起きられん飯もくえんくなった……。それをおれはどうすることもできない」
泣きそうになったタマヨリに波座が鼻先をすりよせた。
「人はどうすることもできないことの方が多い。でもそこから逃げることもできない」
波座の鼻を撫でて息を調えると、そう云った礁玉を見つめた。
「礁姐は強いだろ?海賊の頭だろ?どうしようもないことなんて、ないんじゃねえか?」
「ある。あった。だから逃げずに戦うことにしたのだよ」
「……おれは戦わねえ。『いさら』は使っちゃなんねと浪にも云われた」
「あんたにはあんたのやり方があるさ。それにワダツミを助けた。ハトと巫女さまの命を救った。それは良い方の結果だ」
「そう、かもな」
「それもあんたがしたことだ」
「ワダツミは助けなくてもよかったんじゃねえのか?」
夷去火がぼそっとつぶやいた。
「話はすんだか?」
イカダの上で腕組みし待っていたワダツミは、『波濤』をタマヨリに向けると、
「構えよ!」
と云った。
「跳べ!」
とっさの礁玉の号令に、夷去火の躰は宙を舞った。同時に『波濤』から繰り出された波の大鎌がタマヨリもろとも船を砕いた。
「くそ!何やってるんだ」
波座の背に着地した夷去火は腰の剣を抜いた。
「もうあいつのでたらめは許せねえ。お頭、わりぃが波座をかしてくれ。あいつを仕留める」
「まあ待て」
「でもなんで俺とタマに攻撃する理由があるんだ!」
「確かめると云っておった。おそらくタマの力をみたいのだろう」
タマヨリは後方へ一丁も飛ばされ、海中で気を失っていた。
その周りにくらげが群れなし、沈んでいく彼女を海面へとおしあげた。くらげたちは『いさら』も同じようにした。
「おい、タマ!息はあるのか!」
それを見つけた夷去火は海に飛び込もうとしたが、タマヨリはくらげの上で目を開けワダツミを見た。
「『いさら』を構えよ。もう一度いくぞ」
そう云われても、ぺたりと座ったまま首を振った。
「そんなことする必要はねえ。ワダツミ、おれは人ではないか?」
「……」
「島を出る時、そう云ったよな」
「……云ったやもしれぬが」
「鬼かも知れぬとおれも思う。でも、人でなくても鬼だろうとも、おれは人の子として生きたいんだ」
くらげたちは寄せ集まって彼女をワダツミのほうへ押していく。
「おれは海の生き物も好きだが、人が好きじゃ。じゃが……」
顔をふせタマヨリは先ほどうけた潮の刃で、割けた着物の腹をのぞいた。臍のまわりに三枚、硬く光るものが生えている。
「じゃがな、『いさら』を揮えば鱗が生える。これを使えば、おれは人の形をなくしてしまう。だからおれは二度とこれを使わない。おれは、……おれは人なんだ。人として仕合せになるんだ」
それを聞いた礁玉は見開いたまなじりを細めた。
「人として、か?」
ワダツミの声にくらげたちはそわそわとして、散ったりくっついたりを繰り返した。
「兄ぃさや礁姐や阿呼たちとおんなじものでおれはいたい」
「わかった。では『いさら』はここに捨てていけ」
「え!それはできん!」
「人として生きるなら無用の力だ」
「だども、『いさら』はおれに親のいどころを教えてくれる。それに、これは形は違っても兄ィさが守ってくれたものなんじゃ。親とおれを繋ぐものなんじゃ。浪に云われた時は、置いて行くつもりだったがやっぱりできん」
ワダツミはため息をつくと、指をはじいた。
くらげたちは霧散して『いさら』が波間に沈みかけた。それにワダツミが手をのばした時、タマヨリは命じた。
「戻れ!」
すると『いさら』はワダツミの手をかいくぐってタマヨリの肚の中へ入っていった。いつかの『波濤』を肩にしまうワダツミと同じように、血もなく裂け目もなく儀仗は躰へ収まった。そうなるともう、誰も触れることはできない。
ワダツミは苦々しく顔を歪めた。
「寄越さぬなら、以後俺の前に現れるな。次会う時は、必ず刃を交えることになる」
「なんでそんなこと云うんだよぉ」
タマヨリはなさけない顔をしたが、夷去火が横にきて波座の上に彼女を引き上げた。
「お前、腹なんともないんか?」
「うーん、『いさら』がおれん中におるなあという感じはするが、まあ、なんてことないな。案ずるな」
「案じちゃいないけど、いろいろ気がかりなのよ俺は。なあお頭」
夷去火はちらりと礁玉をみた。彼女は、
「そうだな。ところで、あんたはここを出ていくってことか?一人で」
と聞いた。
「ん。そうなるな。や、そうしたいんだ」
タマヨリは短い間に考えなければならなかった。
―人として仕合せになる。
どうしたら、どこに行けば生きていけるのだろう。親に会えば自分が何者なのかわかるかもしれない。今はそれだけが自分が辿ることのできる道のような気がした。
「礁姐、行ってもええか?」
「欲しいものは遠慮するな。お前が人として生きるというなら、あたしたちは見送るだけだ」
そう云った礁玉に夷去火は目配せした。
「俺も子守りと夢見の悪いお役目から解放されるってことだな、お頭?」
「ふふ。そうだな」
「なんだよ夷去火。おれは子守りされた覚えはねえぞ」
「散々してたわ!」
そうだと云うように波座がきゅいーんと鳴いた。
岩石島には海賊たちが騒がしく寝食するの場所とは反対側の斜面に、海鳥の巣が点在している。羽毛の生え代わった雛たちが巣立ちのときを迎え、一羽また一羽と海への滑空を成功させていた。
「お前が来て二年か?知らねえうちに育ったもんだな」
夷去火がじろじろみるのでタマヨリははずかしくなって、見んな見んなと腕を振り上げた。紅い着物がぴったりとよく似合っている。
「支度はすんだのか?」
礁玉が岩場を越えて現れた。
「おかしくねえかな」
「何がだ?」
「着物じゃ。綺麗だもん、おれには似合っとるかな?」
「はは。ずいぶんしおらしくなって。前は猿が着物きたかのようにはしゃいでおったのに」
タマヨリは決まり悪そうに口元をもごもごさせた。それはかつて、タマヨリが与えられてすぐ取り上げられてしまった着物だった。
「ちょうど、よくなったな」
と礁玉は笑った。
「だども、また返せと云うんでないか?」
「そう疑り深くなるな。宮中でハトを助けただろう?その礼だよ。それはタマが自分の力で手に入れたものだ」
「え?そうなの?」
きょとんとするタマヨリの曲がった衿元を礁玉はなおしてやった。
「あたしは海賊だからな、海賊のやり方しか知らん。他人からは奪うが、仲間には与える。ここを出ていくあんたにはあんたのやり方を見つけろ。ただ、欲しいものをごまかすな」
「おれ、着物もらったし欲しいものなんてもうねえぞ」
「あるから旅にでるんだろう?」
「ああそうだった。親、見つけてくるからな」
「あんたが親に会って戻ってくる頃には、西の水潮はあたしのもになってる」
礁玉とタマヨリは顔を見合わせて笑った。
「栘の浜までは波座に送らせるからな」
「え、おれ泳いで行こうと思ってた」
「どの道濡れるが、構わん。送る。そこから先は、自分の脚でいけよ」
「ああ」
タマヨリは礁玉に抱きついた。頭をなすりつけていつまでも名残おしそうにくっついている。
「ほら、行きな」
礁玉に引っぺがされてタマヨリはようやく離れた。
崖をくだり、波座のいる入り江に着くと馴染みの海賊たちが待っていた。
「タマ!ハトが見送りにきたよ!」
「ほんとうにいっちまうのか?」
タマヨリは頭を掻きながら、行くよとうなづく。
「親、みつかるといいな」「気をつけろよぉ」
ウズとカイに云われれタマは大きくうなづいたが、続けてハトが
「寝小便にはほんと気をつけろよ」
と云ったものだから、まわりからどっと笑い声があがった。
タマヨリは顔を真っ赤にし、
「ハトの馬鹿!そんなこと云ったらまるでおれが寝小便しとるみたいでねえか」
と両腕を振り上げた。
「まあ、その年になって治らないのはちょっと恥ずかしいよな」
とカイに云われ、タマヨリはそっぽむいたまま波座の背に移った。
「冗談だ、タマ。親、見つけたら帰ってこいよ」「道中、動物にも虫にも気をつけろ。ヒルは血を吸うからな」「腹ひやすなよ」「へんなもん拾って喰うなよ」「また会おうな」
海賊たちはてんでに好き勝手なことを云う。
振り向いてタマヨリは大きく手を振った。
「ありがとなー!またなー!」
いっそう騒がしく海賊たちが騒ぎ立てる中、波座は波を掻いて進んだ。
そのとき居並ぶ海賊たちから離れて、ワダツミが立っているのが見えた。
―寄越さぬなら、以後俺の前に現れるな。次会う時は、必ず刃を交えることとなる。
脅しだったのか警告だったのかわからないが、彼の言葉がひっかっかってタマヨリはさよならのひとつも云うことができなかった。
離岸する鯱の背から、ワダツミだけを目で追っていた。
―……ワダツミ。家族はおるか?
―……おらん。いるとすれば、弟か……
―半分になったほうも会いたいでねえか、だって躰の半分じゃろ。
紅い月の夜に故郷を離れた。海は紅く染まって彼を追いやった。互いの故郷は海の最果て。
―還れぬ。
どんどん離れていく。
水先案内をするように後ろから来た数羽の海鳥が、タマヨリを取り囲みつーいつーいと羽ばたいて鳴いている。
何か云うべきことがあるのではとタマヨリは思うのだが、なかば放心したようになにひとつ出てこない。
その時、ワダツミの口が動いたのが見えた。
「 」
それも海賊たちの声にかき消え、耳には海鳥の声が尾をひくばかりだ。
「なんて云った?ワダツミ!!!今、何て云った!?」
タマヨリは声の限り叫んだが、もう岸へは届かなかった。
5章 おわり
第一部 完