モノ書きのかじりかけは、お茶など飲んで❼影響とオリジナリティ、物書きの成分分析
「モノ書きのかじりかけは〜」はナニモノでもない物書く人が、不定期で更新している創作談義です。
不定期過ぎて前回いつだったのか見返したら1年10ヶ月前でした。
アイウカオはもうこのシリーズは書かないと思ったでしょう?
いえいえ語りたいことはいつだって溢れているのですよ。
ただこんなシリーズがあったことを失念していただけで(だめじゃん)。
まあそんななので、まったりとお茶でも飲みながら、聞きながして下さい。
今回のお品書きは、“モノ書き志望はみんな誰かの影響を受けてる!?”って事と、“じゃあ作家固有のものってなんだ?”に“成分分析表”を添えて……。
言わずもがなまったくのシロート視点からです。
◇
誰かの文章を読んで、「この人、村上春樹大好きだろ〜」と思ったら案の定『好きな作家 村上春樹』だったことってありませんか?
文章の端々にハルキ好きは、なにか隠しても隠しきれないハルキストオーラがありますよね。
そこまで(ってどこまで)露骨でなくても、書き手が好きな作家から何かしらの影響を受けてないとは言わせません(強気)。
なぜなら、言語は他者から習得するものだからです。
あなたの周りで話される言葉が日本語だったから、あなたのマザータングが日本語になったように、あなたが読んでいる言葉が、あなたの内的言語を育んだのです。
もちろん影響を受けるのはひとりからだけではありません。
特定の作家というより、あるジャンル全体から影響を受けた、という場合もあるでしょう。
人によってはそもそも影響を受けにくいタイプの人もいるでしょう。
色々ではあると思いますが(すぐ弱気)。
あなたというが人いて、あなたに注ぎ込まれる言葉があって、あなたはあなたの中から言葉を汲み出す。
そういう循環があると考えると、言葉って人って面白いなぁと思います。
また、若い時に出会ったものほど影響を受けやすいものです。
あなたは一冊の本と出会った。
同時期にあなたはあなたの内側や外側に「書くべきこと」を「発見」した。
その時、あなたと本とは響き合っていたのではないでしょうか?
その響き合いが「影響」だと思います。
だから影響を受けるって、モノ書きのハネムーン期ではないでしょうか?
響くままに書く。初期衝動と言い換えてもいいかもしれません。
(初期衝動は音楽用語だけど、向かう先が音か文字かの違いで、根っこの所には似たものを感じます)
しかーし、悲しいかなハネムーンな時間はやがて過ぎ去ります。そうなるとこの「影響」ってやつが邪魔になってくるのですよ。
自分の場合ですが、ふと今までより多少視野が開けた時、「ああ自分と似た書き手はたくさんいるし、むしろあの人やあの人の下位互換だな……」と愕然としました。
星の王子様と薔薇みたいに、宇宙で唯一無二だと思っていたものが、ありふれたものだと知った時の気持ち………あああ。
◇
そして自分のカラーとかオリジナリティとか、そういった他の作家と差別化出来るものを探そうとするのですね。
でも無いのですよ。
手汗でページが黄ばむほど読んだあの本や、ページを覚えて目次を見なくても読みたいシーンを引けるようになるほど読み込んだ本が、もう自分を既定してしまっているのだから。
自分だけのもの……なんてどこにあるんですか?
例えば着眼点、発想力、文体、世界観、セリフのセンス………そのような所には、独自性を感じやすいでしょう。
それで当方のような浅学のものが、「この作品はオリジナリティに富んでいる」と思ったとしても、実は似た傾向の一派が存在しているとか、日本の小説では珍しいけど海外だったらよくある作風だとか、そんなこともなきにしもあらず、なわけで。
本当の意味で突出した独自性に気付けるのは、よほど鼻のきく人か、文芸への造詣が深い人だけでは?と勘ぐります。
独自性とか固有性とか、それが存在しているかも怪しい気がして、とことん分からなくなってきたので、棚上げしてる今現在ですが。
◇
分からないことは分からないままで、得意の据え置きをかましつつ、最近変なことが気になり始めたんですよ。
これは、着眼点や文体のようなオリジナリティの出やすそうなポイントとも、テーマや登場人物とさえ直接には絡まないかもしない。
でももしかしてだけど、もしかしたら、その部分は作家の固有性と切り離せないのでは?と思われる部分。
何かといえば、細部。
細部といっても色々あるので、難しいのですが、作家の提示してくる「普通」とか「当たり前」がどう書かれているか。
そこのところが、もうこれはプロアマ問わず、なんか妙に気になってしまうのですよ。
これは分かってもらえる自信が全然ないので、くどくど書いてしまいますが。
まず、まずですよ、ひとりの作家にはひとつの身体があるわけです。
これは固有性です、よね?
身体がある(あった)以上は、生活がある(あった)わけです。
その人が食べている物がその人を作っているように、その人自身の日常の思考がその人の書く物に滲み出る。
その作家の固有性は何も独創的な着想や、独特な語り口や、構成の妙にだけあるのではない、と思いはじめました。
最初は違和感だったんです。
例えばですよ、例えば………、これ今ぱっと書いた文章ですが、
『早くに父を亡くした蒔田万起男は、女手ひとつで自分を育てた母に楽をさせてやりたかった』
という小説中の表現があったとします。
はい。多分、おかしいところはない。
でもこれの“女手ひとつ”が気になって仕方ない………。
ついでにいうと”楽をさせて“もすっきりしない。
いえ、こういう一文がまろやかに的確にお話の中に溶け込んだいたら、別になんとも思わないかもしれません。
きっとただの感じ方の違いですが。
それは自分が特に何かの思想や主義や信念を持っているから、では決してなくて。
しいていえば、例えの文章から伝わるのは、何も語ってないのに押し付けてくる、そんな違和感。
そこからスタートして、ある事に気がつきました。
一般常識を一般常識として、物語の中に押し込むのは実は危険なことではないか?
どんな書き手も必要だから、その表現を用いるわけだけど。
食事の仕方や些細な仕草にこそ、その人の人間性が垣間みえてしまうように、書き手が「普通」や「当たり前」として書いている所に、その人が滲み出ているのではないか。
(あれ?なんか誰でも分かってることを熱弁してる気がしてきた。恥ずかしいなあ、もう)
能弁な主役より、脇役や脇役ですらないモブ的地の文が声高く書き手を語っている、としたら。
書き手としては、これは相当怖ろしいことですよ……。
自分自身が「読まれて」しまうわけだし。
あ、でも平気な人は多分平気だわ、うん。
じゃあ別の怖さがあるとすれば……。
作品は全体で作品なので、どんな破天荒な主役を据えても、一般常識を「一般常識」のままはめ込んだら主役の魅力は白々しいものになってしまう。
優しさをテーマにした話が、何かを切りつけるというちぐはぐさを生んでしまうかも知れない。
乱暴に言ってしまえばそういう危険が、細部にこそある。
自分が言いたいのはなんかよくある「配慮を求める」とは根本的に違います。
なかなか、どう言えばいいのか悩みますが、「当たり前」のこと、無意識で書いてるような部分にこそ、書き手の固有性は良くも悪くも現れるのかな、と。
それはつまり、自分があまりにも無意識に言葉を選んでいたこと、また、「常識」を持ち込むことで自分の中のささやかな固有性を殺してしまっていのではないかという自戒。
そんなとこなんです。
何をいっているのか、ますます分からなくしておりますが。
ああああ、どうしたらこの痒い感じが伝わるの???
自分が日々の生活中で、見る物聞く物感じる物こそ疎かにしてはいけないと、なんか、そんなことしか言えませんが。
◇
最後に、「影響」について宙ぶらりんなので書いておきましょうか。
影響を受けたもの、について考えると、好き嫌いでは分けられないもの(作品)もあるけど、おおむね、改めて読むと胸に感動が萌すようなものが多いです。
そこに戻ると自分の「書きたい気持ち」を思い出すようなもの。
自分にとってそれらは、あまりにもマザーなのです。
お母ちゃんなのです。
「いつでも帰ってきなさい」と言ってくれて、エネルギーの源、自分の原点、そして心地よいけど、いつまでもそこに居たら独り立ちできない、っていう関係。
それが自分の思う「影響」です。
自分の創作に影響してるものをあげてみますね。
個別の作家をあげるとキリがないので控えますが。
ざっと、影響の成分分析の結果はこんな感じ!
演劇なら「夢の遊眠社」とか「演劇集団キャラメルボックス」、その後「大人計画」にはまった。
遊眠社の「半神」(萩尾望都原作)は自分の創作の原型を作った。
物語の書き方の土台はRPGゲームで、これを指摘されまくって嫌だったので純文学を読むようになったところがある。
ベースはアニメと漫画で出来ている。
それからバリバリのアングラ畑産。
でも10代は「詩とメルヘン」の愛読者だった。
遡れば「メアリーポピンズ」や「グリーンノウ」シリーズや「ムーミン」が大好きな子どもだった。
その時々によって影響されたものは違う。
影響の地層みたいなのができてる。
あと好きだった人の好きなものは大体好きになる傾向。
これ語り出すと3日くらい喋り通せるから。
この辺にしとくね。
あなたが「影響」を受けたものってなんですか?
よかったら教えて下さい。