璦憑姫と渦蛇辜 20章「紅い花の島」①
神の島産みにより絶海に現れた島は、生ける宝島だった。
魚も鳥も草木も、海賊達の目に入るもの全てがこの世のものとは思えない美しさだった。
この島の虫一匹持ち帰ればどれほど珍重されることだろう。
しかし、幾海里の向こうからやってきた海賊には今は真水こそが何よりの宝だった。彼らの舟には瀕死の礁玉が乗っている。
ここからどこかの陸を目指していては、やっとのことで繋ぎ止められている玉の緒も切れてしまう。海賊達はこれ幸いと目の前の島に上陸した。
「水場はこの奥じゃ。蛇にだけは気をつけて行け」
白砂の浜に立ってタマヨリは、ガジュマルの森の奥を指差した。
ウズとハトが先立って森に分け入った。浪は棕櫚の枝を刈って礁玉のための寝床を拵えた。その後、カイを伴って野草を探しに出かけた。
亜呼弥はコトウの膝から抜け出して、ヤドカリを追って浜を這い回っている。
カイセツは舟を二艘とも引き揚げると、他の海賊達と野営の支度に取りかかった。
こんこんと眠り続ける礁玉の側でイオメは火をおこし、呪い言葉を唱え続けている。
タマヨリはすぐにここは己ひとりの場所ではないと心得た。礁玉がその体を癒すための場所であることもワダツミは見越していたのだろう。
「どこからが夢でどこからが現か分からない気がするよ」
とタマヨリは梯梧の木に掌を押し当てた。無論、木は答えない。
「あの日、全部なくなったのが夢で、本当は何も変わらずあったんじゃないかって……。でも、ここにはかつての島人はおらん。次郎もお婆さも兄ぃさもおらん。あの南の島であって、でもそうではない。似ている何かじゃ。でもなあワダツミ、でも今ここには生きてる者がおるんじゃ、これは続きかもしれんな………そうじゃろ? 」
タマヨリは這い回る亜呼弥を後ろから抱きあげて、高く掲げた。
「亜呼弥、見てみろー。おれはな、おまえくらい小さい時にこの島にきたんじゃ。凪女に運ばれておれはここで生かされたんじゃ………。ようく見ておけ、ここがおれの故郷だからな」
海から吹き寄せる風がざーとタマヨリの長い髪を揺らして、梯梧の木も揺らしてガジュマルの森へ抜けていった。亜呼弥はその風に小さな手を伸ばした。
それから海賊達は礁玉の回復を待ちながら、島の暮らしを整えていった。
ここでひとつ賽果座と肚竭穢土の辿った道についての話だ。
両国の和議は面白いほど於緑耳と岐勿鹿皇子の手の上で進んだ。
宝珠が戻らないことが岐勿鹿の懸念であったがその他は滞りなく進み、帰路のための船も用意させかろうじての凱旋となった。
不可侵の約束を交わしたが礁玉一味という戦力と大いなる野望を失った賽果座が、肚竭穢土の事実上の属国となるのには時間はかからなかった。
国に戻った岐勿鹿に突きつけられたのはまずは父王の死だった。次いで『下海』の邪なものに犯された国だった。
自身が建てた『大海神』の社にすでに神の姿はなく、中に巣食うは『下海』の仇者達とそれ従えた乙姫だった。
形ばかりとなった神の御座所をそれでも人々は畏れた。乙姫に言われるがままに貢物を献上し、配下の狼藉にも目溢しをした。ひとえにワダツミの祟りを畏れてのことだった。
岐勿鹿が王となって後、まず最初に取りかかったのが社を暴徒もろとも焼き払うことだった。
それに腹を立てた乙姫は己の術の限りを使い、肚竭穢土を陥れた。国は跋扈する仇者と腐敗によって内側から崩れた。
やがて彼の地は攻め込まれ、全ての栄華は時の渦に飲みこまれ消えていった。
肚竭穢土は『下海』に穢された不吉な地とされ、名前も一切の痕跡も残すことを許されなかったのだ。
啓開された海路や港湾に設けられた屯倉も例外ではなかった。
王墓など消し切れないものには別の名と別の物語で上書がほどこされた。消されようとしたのは国の名、王の名ばかりではない。
海の化身、海の王、『真海』の頂ー海神。
しかし海の支配者は別の神の名ー素戔嗚を冠した。
ただ海に生きる者は綿津見神の名を忘れることはなかった。
それが岐勿鹿の寿命の内とその後に起こったことだ。
島は陸からはるかに遠く、しかもどの航路からも外れていたため陸との繋がりはほぼ絶たれたようなものだった。
そんなわけで、賽果座のことも肚竭穢土ことも海賊たちは知る由もなかった。
「お頭!見て見て!ハトが捕まえたの、これ何ていう魚?」
「それは石鯛だな」
海から上がってくるハトがぶん回す魚を見て浪が答えた。
「あれ、浪来てたのね」
「ああ、今さっきな。礁玉、これで不自由はないか?」
海嘯洞窟の中で浪は囲炉裏を作りなおしていた。
カイやウズ、イオメ夫婦は森の入り口に居を構えたが、礁玉とハトは海の側で暮らしていた。脚を無くした礁玉は、水の中の方が自由に動けるのだ。好んで海に向けて開けた洞窟に住んだ。
薪集めや森で採れる果実を運んでくるのはハトの仕事になり、浪は時々こうして訪れては身の周りを整えてやっていた。
「ああ。この位置がいい」
礁玉はうなづくとハトを見て、浪を見て
「この海の魚はすっとろいからハトでも捕まえられる」と笑った。
「だが豊かな海だ。誰も飢えることなく暮らせる」
と浪は光る海に目を移した。
「あなたがまだ望むのなら………」
と浪は礁玉に向きなおった。
「私には用意があります。再び、あなたが水潮の王を欲するなら」
「おまえが来た時からその話をするんじゃないかと思っていた」
礁玉は長い髪を手ですくって一つに扱いた。波座に脚を食われたとき、彼女の髪の一部分は真っ白になった。
鬢の毛と後ろ髪の内側だけくっきりと白くなり、あとは黒々とした髪は鯱の模様を思わせた。
「なあ、浪」
「はい」
「あたしはあたしの野心のためにたくさんの者を屠ってきた。波座はあたしだ。だからあたしを食ったのはあたしなんだよ。巡り巡って己の野心が己を食っちまった」
礁玉の目がもの想うように細くなって、対して口元が微かにほころんだ。この島に来てから礁玉は笑うことが増えたと浪は思う。
「あたしの夢だったものは、波座の腹にのまれ海の底に沈んだ」
浪は肯うようにゆっくりと瞬きをした。
「……亥去火のやつ、ほんとうに泣き虫だったろう」
「ええ」
「でもあたしが誰にも奪われない国をつくるって云ったら、あいつ泣かなくなったんだ。
あたし達は奪われてばっかりだったからさ、取られない国なんて夢のまた夢だけど、あいつにはよかったんだろ、そういう夢みたいなのを目指すってことがさ。だからあたしは何だってできた」
「それは亥去火も一緒ですよ」
「死なせちまった」
「あなたのために惜しいものなんて、ひとつもなかったんですよあいつは」
「………………やっと辿りついたのかもしれないな、虹の下に」
「虹?」
「ああ。知ってるか浪、竜宮城ってのは海虹の真下にあるんだ」
「ええ」
「……そこに行きたかったんだ、あたしもあいつも」
ボチャンという音にふたりが振り向くと、足を滑らせハトが水に落ち、手の中の鯛はするっと逃げ出した。
「ああああ、せっかく捕まえたのにぃ」
ハトは水を搔いて再び捕まえようとするが、二度も捕まるような鯛ではなかった。
「おい、ハト! 食事ならカイ達が用意しているぞ」
ハトが必死なので浪は思わず声をかけた。
「ハトはお頭にたくさん食わせたいの! だってお腹の子の分も食べなきゃいけないでしょ」
そう云って指さした礁玉の腹は臨月を迎えて張りつめていた。
「ばーか」
もう一度海へ出て行くハトの背中に礁玉は笑った。
「で、誰の子なんですか?」
人のいなくなった洞窟で浪は小声で囁いた。
いっときは瀕死の状態だったのに、腹の子がよくぞ育ったものだと皆が口を揃えた。よほど子の思いが強かったのだろうが、礁玉は無頓着だった。
誰が聞いても父親は知らないと答えるばかりだった。ふたりきりなら明かすかもしれないと思った浪だったが、答えは「知らない」だった。
それから程なくして男児が生まれたが、礁玉は名前さえ付けようとしないので、子どもは不知火と呼ばれるようになった。
知らぬ、知らぬの不知火だ。
イオメ夫婦も子を授かり、一人生まれてからは二年おきにぽんぽんぽんと兄弟姉妹は増えていった。
不知火は彼らに混ざって育っていった。
礁玉がとりわけ手をかけなくても、ウズやらカイやらが見よう見まねで世話をするので、昨日今日と寝床を変えながら育っていった。
不知火がいっぱしの口をきくようになった頃には、誰もがその背に父親の面影をみるようになった。
消えない火というのはあるものだ。
続く
あらすじ