璦憑姫と渦蛇辜 13章「鯨と翁」②
ー『いさら』、陸は何処か?
目を閉じ内なる剣に尋ねた。そして目を開けたとき、見えない陸の方位を一直線上にとらえた。
「さて、泳いで帰れるものじゃろうか? 」
距離が測れるわけでもないのにうんと目を凝らしたタマヨリは、別のものを見つけた。
人の頭のようなものと板切れが波間に揺れている。
飛び込んで近づいてみれば、男がふたり板に身体を結びつけたまま流されているのだ。
板は舟の一部分で、時化に遭ったのだと分かった。
波にのまれて沈まないように、離れ離れにならないようにこのふたりは舟板に体を結んだのだ。
タマヨリは苦労しながら男ふたりを流木まで押し上げたが、固く結えられた紐は水を吸ってさらに締まって解けない。短刀はなくしていた。腹から『いさら』を抜き出して紐を切った。
ひとりはごく若い男で、もうひとりは彼より幾らか年長の男だった。
年長のほうがすでにこときれているのは気がついていた。波間に浮かんでいる時、海面にずっと顔が浸かっていたのだ。
それでも若い男の側を離れまいとするように、手は紐を握ったままだった。
「まず助かるまいて」
磯螺に声をかけられてもタマヨリは、脇目もふらずに若い男に水を吐かせようと試みた。
「大丈夫。息はある」
しかしそれも虫の息だ。ごぷごぷと水を吐いたが目を開けることもしない。
「助けたいんじゃ」
「儚きことは人の定め。どうなるものでもなし」
「じゃあ、おれが陸まで連れていくよ。……きっと何てこたぁないからな」
後半はふたりの男に向けて云った。
陸の方角を向き、『いさら』を波に突き立てると櫂のようにして漕ぎ始めた。しかし流木は舟のようにはいかない。漕いでも漕いでも進んでいるのか、同じ所を回っているのか分からないといった具合だ。
「大丈夫じゃ。陸はあっちじゃ、いつか着く」
「ほぉっほぉっほぉ。いつかは着く。じゃがそのような様では陸も遠ざかろうぞ」
そう云われてもタマヨリは漕いだ。『いさら』、『いさら』どうにか進ませろと念じながら。
そのうち、息が上がってきた。虚しくなってきた。
海面に現れる生き物の姿はない。空の青に豆粒ほどの鳥の姿が見えて、消える。
寄る辺ない心内のように、見渡す限り何もかもが遠い。
かろうじて取りとめている男の命も、海の上で一昼夜は保たないだろう。
男と年長者の関係は分からないが、死んでなお掌に残された紐がふたりの繋がりの深さをうかがわせた。
タマヨリは凪女のことを思った。
ー凪女、凪女。
と思えば、死にゆく男も死んだ男も凪女の化身に見えてくる。
ー何もできない。おれには何も、できんかったのよぉ。
腕の中で消えていく凪女の様が浮かべば、この男もただ息絶えていくだけに思えた。
それが悲しくて、タマヨリの目から涙が溢れた。
「ふうぅぅむ」
と磯螺が唸った。
「赤子のようじゃな」
泣いていることを指されたと思ったタマヨリは、慌てて涙を拭った。
それには頓着せずに磯螺は『いさら』を指さした。
「それの扱いじゃ」
タマヨリは漕ぐ手を止めた。
「ほぉっほぉお、見てはおれん」
「じゃあ、どう使ったら進むんじゃ」
「漕ぐものではないからなぁ」
「剣だしなぁ」
「そうじゃ。それはおぬし/おぬしら本来の力を、いかんなく発揮するための器であり、架け橋なのじゃ。おぬし/おぬしらに分けて与えられた力が、それぞれに相応しい形をとってみせた。相応しく使えば相応しく応じる」
タマヨリは水から引き上げた『いさら』を流木に突き立てた。考えがあったわけではない。困ってそうしただけだったが、事切れた男の姿が黒い刃に白く映ったのを見た。
白く光るその姿は、海からあがってくる魂によく似ていた。
かつて鴉雀の母と妹の魂を海からあげた時、彼らもこのように白い光を帯びて透き通っていたのだ。
「ああ」
と云ってタマヨリは『いさら』の柄に手を置いた。そして小さく唄い始めた。
島のお婆さから教わった子守唄を海に向けて口ずさんだ。
すると白い球がぷかりぷかりと上がってきた。それがまとまって広がって、最初に人の形を成したのは側で躯となっている男だった。
自分が死んでいるのが分かっていないのか、慌てた様子で若い男ににじり寄ると必死に目を覚まさせようとしている。
「これ死人」
と磯螺が呼びかけた。
「死者の国より呼び戻された者は、呼び戻したものの命をきかねば消えるぞよ。さあ、死人、お前の主人はそこにおるぞ」
磯螺は小さな手でタマヨリを示した。
「気の毒じゃったな……」
とタマヨリは一声かけた後、朧ろに光る死人に嚙んで含めるように伝えた。
「今からこの男を陸に届ける。お前の躯もじゃ。乗り物はこの流木しかない。うまいこと、できるだけ早いこと陸へ連れて行ってほしい」
死人は頷く代わりにぶるっと身を震わせた。タマヨリの言葉で水で出来た体を得た彼は海に潜った。
程なくして白く光る姿が流木の周りを取り囲んだ。数人の男達だった。
年長の死人が号令をかけた。号令といっても人の耳に届く音ではない。死んだものだけに聞こえる言葉でだ。
「ぼおおおおおうううううよおおおお」
と響くその声に応えて流木は海を滑り出した。死人達はもはや人ならぬ速さで泳ぎ、流木を押した。
恐ろしく速かったが、無闇に揺れることもない。磯螺は枝の先に腰掛けたままその様子を面白そうに眺めた。
疲れることを知らない死人の櫂は、日が天頂に登る頃には陸の影が見える海域へと入った。
「分かるか。なるべく人のいそうな場所へ運んでくれ。こいつには水がいるんじゃ。それからゆっくり休める場所が」
年長の死人に云えば彼は声ならぬ声で応えた。タマヨリは安心して任せた。
風の舟となった流木は滑るようにひとつの港を目指した。
安堵より先にタマヨリは我が目を疑った。
漁村にでも辿りつけばと思っていたが、そこはどう見ても小さな漁村ではない。
同じような形の石を組んでぐるりと張り巡らせたそれは、港というよりは城塞であろう。
立ち並ぶ倉庫の群れ、その向こうに朱塗りの御殿が垣間見えた。
沖を行き交う舟の多さ。
どれも見たことない規模であり、洗練の上に洗練を重ねたその場所はタマヨリには異国の地としか見えなかった。
いや、実際異国だったのだ。
「ぼおううう」
年長の死人がひときわ大きな声をあげた。
「ああご苦労。これでこいつも助かるよ」
「うううぼあああ」
死人は若者の側にひざまづいた。
「おまえにとって大切な人だったんじゃな。目が覚めたらおまえ達がここまで運んだことは話しておくよ。………もう、ゆっくりしてくれ」
そう告げると流木を押していた魂達は揺らいで波間にとけていった。しかし年長の死人だけは名残りおしそうにとどまり、最期にこう告げた。
「ううぼぼ………我らが肚竭穢土にぃいいい、帰りつきましたぞ…………」
期せずしてそこは当代随一の繁栄を極めた商都、肚竭穢土だった。
続く