見出し画像

璦憑姫と渦蛇辜 終章「海神(うみがみ)」③(完)

 高熱の硫酸の吹き出すのは水の底、地の割れ目だ。水の圧は途方もなく、ひたすらに冷たく、海雪かいせつが音もなく降る処。光のない死の世界もまた海である。
そこへ深海の鮫が集まってきた。その目の中に磯螺いそらがいる。新しい真海しんかいの王の誕生の報は瞬く間に八十諸神やそもろかみの間を駆け巡った。

 いと美しき王であると。
腰まで届く御髪は自ずから発光するように白く、比類なく美麗であると。厳かな眉目に憂いの影が落ち、海底の深淵よりも暗い瞳は冥府を従えるものの証。
威容を放つ体躯に足りないものはひとつもなく、手にした逆鉾までも体の一部のように収まりよく、すべてにおいて見目麗しいと。

しかし欠けている。
『竜宮』の礎となるべき半身を人の世に置いたままだ。その欠損こそが神々の最大の関心ごとであった。
王が戻っても戻るべき城はない。都はやがて水の泡と消える。
到底従うに能わないと断ずる神々もいた。
しかし『下海げかい』と『真海』、ふたつながらの力を手にした海神に逆らえるものはいない。故にそれは何より由々しい。もう一悶着起こりそうだ。


「………磯螺」

海神わだつみは呼びかけた。一匹の鮫が進み出て頭を垂れた。

「ここに」

「案内せよ、『海境うなさか』まで」

「御意にございます。しかし『竜宮』は風前の灯、もはや誰も貴殿を王と認めますまい」

海神は凪いだ目のまま唇を僅かばかり動かした。

誓約うけいを行った」

磯螺はそこで全てを承知した。誓約とは神判である。あらかじめ定めた事柄を言葉の通りに辿り、可否を諾するものである。そしてそれはのりも戒もない神の国にあって唯一無二の拘束力を持っていた。

「その科白かはく、ここで今一度………」

うやうやしく磯螺は願い出た。
磯螺は確かめねばならなかった。海に生きるあらゆるものに宿る目として、この海で起こるすべてを掌握する神として、出どころも分からぬまま神々の間に流布し、水鏡から水鏡へとこだまし続けたあの予言の起点を。
今ここが始まりとなり同時に帰結となる海神うみがみの神託を。

海神わだつみの口が開いた。

「母なるものを殺し、父なるものと交わり、そのもの、真海の最期の王とならん」

発した刹那、それは言霊ことだまとなった。
水は伝える。海そのものが証人となって、あまねく水世界へと伝令される。
水は時の来し方から行きし方まで言霊ことだまを運ぶ。その言葉は時の運行のあらゆる局面へばらまかれるのだ。つまり未来が過去を決めるに等しい。
予言という姿を借りて、今この刹那に約束は生まれ、ふたりの半神を誓約の到達点という頸木くびきに縛りつけたのだ。

「私は母を食い殺した。璦憑姫タマヨリヒメの『いさら』と渦蛇辜ワダツミの『波濤』は取り替えられ、交わりの証に子を成した。宣誓は遂行された」

予言に約束された未来は、予言に拘束された未来でもある。
その遂行が一層困難であるほど、言霊としての効力は強い。
八十諸神は認めざるを得ないだろうと磯螺は思った。自らを自らへ課した誓約によって王たらしめたのだ。

ー島、ひとつ…………。

と磯螺の無数の目のひとつは高波を免れた島を映した。

ーさて海神は島ひとつのために王となったのか。冥府の威光をもって睨みをきかせれば、もう誰もあの島をどうこうすることもできぬ。それとも『竜宮』への思慕が描かせた筋書きだったのか…………。いずれにしても八十諸神我らにはどうでもよいがのう…………。

何をどうしても覆せぬものとなった予言の結末を携えて帰還するのだ。
『竜宮』の余生を飾るに相応しい空疎なほどに美しい王が。それでも王は王だと磯螺は判じた。

「では参りましょう、『竜宮』へ。神々が集まって千日の宴を催すでしょう。貴殿が正真正銘最期の王なのだから」

磯螺の言葉に海神はぴくりとも表情を変えなかった。
鮫達にかしずかれ移ろっていく海神の元へ白く光る玉が駆け寄るように追いついてきた。
その時初めて海神の目元がほころんだ。真珠色に輝く腕を差し出すと、白い玉は海神の掌に乗ってコロコロと転げ回った。

磯螺は素知らぬふりをし進み、『海境』へ続く沖津道が開かれた。
その道は眩いばかりに輝き、『真海』の王の元へ集うべく神々の渡りが行われた。

 
 

 いつもと同じように鴉雀あじゃくはせっせと籠を編んでいた。
傍に置いた蔓に手を伸ばしたがあと少しで届かない。手探りで探す鴉雀の手の届くところへ蔓をひと束そっと押し出したのは兄の嫁のヒツルだ。
それを察した鴉雀はこくりとうなづく。

烏鵲うじゃくが帰ったら、あたしは籠売りに町へ行ったと伝えてちょうだいな」

彼女はそう云いおいて町へつながる急な坂道を降りて行った。
鴉雀が藤や木通アケビの蔓で編む籠はたいそう造りが良いと評判で、町でもよく売れた。
兄の烏鵲うじゃく夫婦と共に暮らす家からは、海と海へ突き出た莵道とどうが見渡せる。しかし海のならずものに傷つけられた鴉雀の目は、明るい暗いが分かるくらいで物の形までは見えない。
もつれっ毛で茂みのような髪の中には今でもひわが住んでいて、時々彼の手助けをするのだ。
 
 ふと戸口の向こうに気配を感じて鴉雀は立ち上がった。
猟に出ていた兄の気配ではない。客人だろうか。何かに導かれるように鴉雀は外へ出て、そして息を飲んだ。

 海が金色こんじきに光っていたのだ。
光の具合ではない。海の水が、海の底から、光を放って水平線まで続く金の水に変わっていたのだ。
それが鴉雀の目に映った。

「お、お、おおお………」

神々しいばかりの煌めきが彼の目を覆った。
光に浸された陸は影をいっそう濃くして、延びた莵道の半島は金色の中に投げ出され、そのまま溶け消えていきそうだ。
髪の毛から鶸が何事かと顔を覗かせた。鴉雀はただただ我を忘れてその場に立ちつくした。
そこへ山から兄の烏鵲が駆け下ってくると、

「あれは何だ! 」

と家の戸口に向かって叫んだ。

「兄さん………。海が、海が金色になってるよ」

「ああ、ああ。それで俺は急いで帰ってきたってわけだ。それでヒツルは? 」

「町へ籠を売りに行ったよ」

「そうかい。さぞ驚いているだろうなぁ。肥鵙ひもずのだんななら“おうおうおうおう”が止まらなくなっているだろうよ」

肥鵙とは兄嫁の父である。何かにつけ膃肭臍おっとせいが鳴くような声で「おうおうおう」と発するのだ。鴉雀は「そうだね」とその様を思い浮かべて笑った。
それから海へ向かって、

「おーい!おーい! 」

と声の限りに叫んだ。

「どうしたんだよ、急に」

「はははは。海でも山でも大きなものを見ると思わず叫びたくならない? 」

「………鴉雀、おまえ見えてるのかい? 」

「ああ見えている。あの娘が海に帰っていく姿が見えてる」

「あの娘? 」

「ああ、そうだよ兄さん。僕と一緒に旅をした女の子だよ」

「………」

烏鵲は乙姫の術に堕ちて死にかけた日々を思い出した。思い出すといってもその時のことは全て夢の中のことのようで不鮮明だ。
動けなくなった自分のために弟が半ば強引に自分の役目を引き継いで、お陰で呪いからも解かれたと心得ている。
臆病な弟が美しい娘と鮫や海の化け物と戦ったのだと聞いても絵空事だと思えたが、嫁もその娘に助けられたというのだから本当の話なのだろう。

「あの娘は海から来た子じゃないかって思ってたんだ」

「腕に鱗があったんだろう」

「そうさ。驚いて手を離してしまったけど、傷つけてしまったんじゃないかって今でも気がかりなんだよ。助けてもらったお礼も云えなかった。ああ、でももう悔やむのは終いだ。
だってタマの横にいる漁師、あれは兄さんだろう。会えたんだな………。すました顔してるけど、兄さんとはあんなに笑いあってる………はは、何だよ、こっちまであったかくなる笑顔だ」

烏鵲は光る海の端から端まで眺めやったが、どこもかしこも光る水しか見えない。

「……なあ、鴉雀、お前は何が見えているんだ」

「海だよ、光る海の、いちばん光っているところ…………」



 『真海』に王が生まれ、神々の渡りによって海は金色に輝いた。最期の海神うみがみの最期の渡り。
 紅い花の咲く島でも、島人達はその光景を目にしていた。
目前の嵐も海嘯かいしょうもかき消えて、海は光れど波は穏やかで、いつもの美しい風景が少しばかり眩くなっていた。

「あの赤い魚が高波を飲み込んだんだ」

「だから嵐も波も消えたんですわ」

不知火しらぬい亜呼弥あこやは大人から離れて、ふたりでタマヨリの住んでいた丘の上の小屋に来ていた。

「ここにもいないぜ」

不知火が小屋を一周する間も亜呼弥は海を見ていた。

「おい、ちゃんと探せよ」

「…………」

「おい、何で泣いてるんだよ。すぐ泣くなよ、泣き虫! 」

「……泣いてなんかいませんわ」

「だってさ」

と云って不知火は急に心もとなくなってきた。島のどこを探してもタマヨリは見つからないのだ。
大人達は何も云わないが何かを知っているようだった。

「やっぱりあの大きな魚はヒメだったんですわ」

「そんなことあるかよ」

と云いつつも不知火もずっとそんな気がしていたのだった。

「………じゃあ、いつ戻ってくるんだよ」

「タマヨリヒメはいますわ」

と亜呼弥は云った。「どこどこ」と不知火はあたりに人影を探したが、ふと亜呼弥が見ている方へ視線を移した。
島全体が見渡せた。
ガジュマルの森、海へ注ぐ川、その中洲、雌漂木メヒルギの茂み、小さな集落の屋根、岸壁、白砂の浜、その先にどこまでもどこまで広がる果てのない海。

「あそこにいますわ」

「………うん」

ふたりは並んで島と海とを見つめ続けた。


 その日、浜辺に裸の少年がひとり倒れているのをウズとカイとハトの三人が見つけた。
梯梧デイゴの木の先、泡のひだが撫でる汀に眠るようにしていた。何処から来たのかどうしてここにいるのか何も覚えていない。
親はどうしたのかと聞けば、梯梧の木を見上げる。そこに誰かいるのかと見ても誰もいない。誰もいないと教えれば海を見る。海を見ても誰もいない。
濡れたような黒髪に真珠のように内から光る肌を持つその少年は、村に連れ帰えられた。
そうして不知火や亜呼弥たちと共に育てられ、少年はやがて漁師になった。
少年の名をイサラと云う。




______________________




 観光シーズンともなると島にはたくさんの人がやってくる。
海を一望する丘の頂には海神うみがみを祀る祠が鎮座していた。
祠の海神は背中合わせの男神と女神という珍しい姿をしていた。兄妹だとも夫婦だとも云われる像の顔は瓜二つで、結合した双子のようにも見える。
この美しい島はその表裏一体の神に造られ、島の人々はその神の子孫だといい伝えられている。





『璦憑姫と渦蛇辜』 完



読んでくれてありがとうございます。