璦憑姫と渦蛇辜 5章「いさら」①
深く潜ると落ち着くのだ。
海にはタマヨリが育った島のようなサンゴ礁も色鮮やかな魚もないが、碧の深みは光を吸って底知れぬ昏い淵が誘ってくる。凪ぐ日も猛る日もある海の、青いばかりが海でないこと、与えるのも奪うのも海の所業に違いないこと。この灰紺の海の温度と共に覚えたことは、月日とともにタマヨリの肌に馴染んだ。それでも疼くような望郷は潮でしかしずまらなかった。
船底の影の位置を確かめるとタマヨリは浮上した。
「遅い!」
と水面に顔を出すなり阿呼に叱られた。
「ずっと戻ってこないから、タマが魚になってたらどうしようって思ったのよ!」
タマヨリよりひとつ年上の阿呼は、賽果座の国の巫女だった。海賊礁玉の一味にあって賽果座との共謀の立役者であるコトウの遠縁にあたる娘だ。
二年前、礁玉の一味の目論見通り、來倉と周囲の五小国は賽果座に降った。賽果座は三つの部族から持ち回りで王を出していたが、神託を授かる巫女の地位は別格であった。その巫女の血筋であるコトウもまた大きな力を揮い、コトウと並ぶ知恵者であり武にも長けた浪の存在によって、礁玉は賽果座を実質的に掌握するに至った。
海賊預かりだったタマヨリは年恰好が近いこともあり、阿呼の世話役を任されることとなった。世話役といってもタマヨリも阿呼も互いに遊び相手としか思っていない。宮中で退屈していた阿呼を海へ誘ったのもタマヨリなら、ほったらかしで泳ぎ回っているのも彼女だ。
「阿呼も泳いだらええ。魚になるのも悪くないぞ」
「嫌よ。海なんて広すぎて怖い」
「おかしなこと云うなあ」
くるくるとよく表情の変わる阿呼は頬を膨らませた。社にいる時はもっとすました顔をしているのをタマヨリはよく知っている。生まれた時から巫女として大切にされてきた彼女は、タマヨリのほかに友人はいない。ことのほか自分を慕ってくる巫女を姉のようにも妹のようにも感じていた。
その膨らんだやわらかな頬をおすと、阿呼は真顔になった。
「おかしくないわ。海には信じられないくらい大きな魚がいるのよ。食べられちゃうかもしれないでしょ」
「ははっは。食べられやしないさあ」
「だって海賊には大きな鯱がいて人を襲うんでしょ。今だってこの海を血を求めてー」
そこまで云うと阿呼はその想像に気分が悪くなったのか塞ぎこんでしまった。
「大丈夫か?」
持ってきた水を飲ませると、タマヨリは陸に向け船を漕ぎ始めた。
「うん。ただ怖いだけ」
「波座はな、鯱だけど人の言葉がわかる。とても賢いやつだよ。礁姐がいいといわなきゃ、人は襲わねえ」
「タマ、いつからあの女の人のこと姐なんて云うようになったの?」
「ずっと前からさ。でも海賊がいる前では云わねえ、浪がいい顔しねえから」
「浪どの?」
阿呼の顔がぱっと明るくなった。それこそ花の咲いたような甘いほころびかただった。
「まあた浪だよ」
タマヨリは半ばあきれ顔だ。阿呼は浪の後ろ姿を偶然見ただの、屋敷の誰かが浪の名前を口にするのを聞いただので、その日一日浮かれているのだ。
「何かにつけて、浪、浪、浪」
「いいじゃない」
「そりゃ悪かねえけど、なにがそんなにいいんだかおれにはわかんね」
「全部がいいの!」
「……ますます分からん」
「立ち姿が凜としてらっしゃるし、賢くて、それにお顔立ちが」
「賢いのはコトウの爺さだってそうだろ」
「そうじゃなくて!弓も剣も相当の腕前なのよ」
「腕っぷしなら夷去火のほうが強いし、海に出たら礁姐と波座に勝てる奴はいねえなあ」
「もう!」
阿呼の顔に赤みがさすがタマヨリは気にとめない。
「だってさ、礁姐はどどーんとしてな、最初こそ怖かったけどあの人でなくちゃ海賊は率いれないよ。強いんだ」
それよ、と阿呼は小さな声で云った。
「あの人でなくちゃだめだって、ことよ」
「……夫婦になりたいってことだな」
「はっきり云わないでよ!」
「怒ることか?おれにもおったぞ」
「え?タマに?……誰なの?」
ふふっとタマヨリは笑った。あと二三年もしたらそうなるはずだった。それが十も離れていた兄の歳にどんどん近づいていくのだ。
「云わないつもり?じゃあ今どこにいるの人なの?」
「……海じゃ」
「もしかして海賊?」
「いいや」
魂とは結婚できるんだろうかとタマヨリはふと思った。それからおかしなことを考えている自分にこっそり笑った。
「自分のことは云わないのね?」
阿呼はタマヨリのおでこをつついたが、次に盛大な悲鳴を上げた。タマヨリの背後に突然海から人影が現れたのだ。タマヨリは腰にさした短刀を抜いてすぐさま振り返った。
二人を覆うほど大きな影は顔が逆光でよくみえないが、その輪郭はタマヨリの見知ったものだった。
「脅かすなよ!夷去火だろ」
それを聞いた阿呼の全身から力が抜けた。
「こんなとこでちんたら船を漕いでるんじゃねえよ」
夷去火はタマヨリの手から櫓を奪うと漕ぎ始めた。船はみるみる速度をあげ、浜が近づいてくる。
「何しに来たんだよ」
「お前らが勝手に海に行くから、浪が連れもどせってさ」
「え、浪どのが」
「そう、浪どのが」
夷去火が意味深な目で見るので亜呼はつんと顔を背けた。
「なかのもんには遊びに行くって伝えたぞ」
「目の届かないとこまで行かれると、危ねえのよ、特にお前が」
「は?いっとくが海はおれの庭みたいなもんだ。なんも危ねえことはねえ」
納得がいかないタマヨリは阿呼に同意を求めるが、海と聞いて彼女はあいまいに口の中で言葉を転がした。
海戦となればどこへでも駆け参じる夷去火にタマヨリのことを気にかける暇はないが、礁玉の言いつけを軽んじることはない。
―娘には気をつけろ。何かあれば首を落としてでも止めよ。
來倉との一戦ではワダツミは人の域を超える戦をしてみせた。島に残ったタマヨリは兵の傷の手当もへっぴり腰で役に立たない。夷去火にすれば排除するべきはワダツミの方で、彼女はなんということないただの子どもだった。しかしお頭の云う事なら守らねばならない。
戦への貢献と賽果座との結盟により、海賊でありながら宮中に出入りできるようになった。その折り、彼女を巫女の世話につけることを通したのは浪だった。海から遠ざけ、浪や屋敷に出入りする仲間の目に触れるようにするという狙いもあった。
今日も彼は礁玉からの伝言を伝えに寄った際、いないと分かるや海へ向かった。
「後でハトを屋敷に行かせる。以後、阿呼さまの部屋の門番だ」
夷去火に云われタマヨリは怪訝な顔をした。
「要らねえよ、あそこはだいたい人が多いんだよ。ハトなんていても役にたたねえぞ」
「あの馬鹿、右腕に矢じりが食い込んで取れねえんだ。船に乗せておいても役にたたねえ、番犬くらいはできるだろうってお頭の指示だ」
「撃たれたのか?」
「ぴんぴんしてるがな」
「そうだ、ワダツミは?」
夷去火の眉がぐーと寄った。
「相変わらずなんじゃねえ」
「そっか。こっちに戻ってきたのか?」
「いいや。北の列島に遠征に出たままだ。もう戻ってこなくていいぜ。仲間は見捨てる、気位は山より高い、自分の欲だけで戦ってそこにしか慰めのない哀れな奴だ。で、他に聞きたいことは?」
櫓を漕ぐ手が速くなり船は波を割いて走り出した。
「ワダツミのこと嫌いなんじゃなあ」
「当たり前だ!奪うことしかできねえ奴は結局なにも成せねえよ。あいつには人の心がない」
「……それは『弟』が持ってっちまったんだな」
「ん?なんだそりゃ?」
「……うまく云えね…………」
「ワダツミってどなた?」
話が途切れるのを待って阿呼が待ちわびたように、
「もしかして、さっきタマが云ってた人?」とたずねた。
「さっき?」
「め・お・と」
「ええ違うよ!ワダツミは……」
「モグりの海賊だ。いや鬼か邪神だなあいつは。阿呼さまが口にするのも汚らわしい奴だ」
まあと云って阿呼は、いやそこまではとタマヨリは首を傾げた。
「とりあえず、ハトのことは浪が決めたことだからな」
阿呼は話し向きをかえられて、
「浪どのの云う事ならそうしましょう」と年上らしくタマヨリをさとした。
「阿呼さまは浪の云うことならなんでも承知なんだな。じゃあタマが死ぬのも承知か」
軽口を叩く声音のままの彼に、二人の視線が縫い留められた。
宮中の奥にいる巫女の顔を知るものは限られている。もし外部から敵に襲われた時は阿呼の身代わりとして死ぬべし。それがタマヨリの本来の任務であり、巫女と同じ装束を着せられた時、浪から告げられたことだった。
「だから死なねえよ。阿呼に手を出す奴はおれが追っ払えばいいだろ」
「泳ぐことしかとりえのないお前に何ができるんだよ」
「大丈夫です。タマが私の身代わりになることなどありません」
毅然と阿呼は云ったが彼は首をふった。
「そりゃあ、ならんことがいいさ。ただ肚竭穢土は抜け目ないぞ。いつ何が起こるかわからん。だからハトを傍につけるんだ。お頭だって俺だって、お前に死んで欲しいわけじゃない」
「タマは私が命にかえても守ります」
「阿呼さまには生きててもらわねえと、俺らもお頭も困るんだ。まあ、血なまぐさいことは海賊に任せときな」
勢いがついたままの船はがくんと浅瀬の砂にのめり込み、脚を濡らさぬようにと阿呼はかつがれその横をタマヨリが歩いた。
夷去火の背から阿呼が手招いてタマヨリの手をとり指を絡ませた。タマヨリよりずっと白い手をぶらぶらさせながら、
「タマにはずっと元気でいてほしいの。浪どのの云う事でも、私はタマが仕合せでなくては私も仕合せではないのよ」
と歌うように告げた。
「なんてこたないさ。おれは仕合せになるさあ」
つないだてを振りかえしてタマヨリは笑った。
続く
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