璦憑姫と渦蛇辜 14章「肚竭穢土に吹く風」②
「ここを我が家とするがよい。私の妻として共に暮らそうぞ」
あっけに取らたタマヨリだったが岐勿鹿の云わんとすることを飲み込むと、気負いなく答えた。
「そりゃありがてぇ申し出だが、おまえの妻というのは無理じゃ」
「なにゆえ? 」
よもや断られるとは思っていない彼はきょとんとした。
「おれが一緒になるのは、兄ぃさだけだ」
「兄とな?」
「兄じゃ」
「……つまりタマヨリの母御の夫となった者を慕っておる、と? 」
タマヨリの眼裏にはワダツミが浮かんだ。
「いや全く」
「では別の兄弟がおるのか?そもそも兄妹では夫婦にはなれぬぞ」
と稚児に云い含めるように彼は柔らかな声音を出した。
「血は繋がっておらん」
「ふうむ」
岐勿鹿はまだ見ぬ兄とやらの存在に、面白くなさそうな顔になった。
「それではその兄は何という名でどこにおるのだ? 」
「兄ぃさは海彦という名で漁師だ。今は『中津海』におる」
「『中津海』とな」
「数年前に死んだ」
岐勿鹿は短く息を吐いた。安堵とも憐れみともつかぬものが胸をなで下ろした。
「死んだ者とはいくらなんでも夫婦にはなれまい」
タマヨリはそれでも岐勿鹿を見据え、躊躇なく云った。
「兄ぃさは、海で待っておる」
「は」
と声が漏れた。笑うべきか飽きれるべきか、彼にはその両方だ。
「つまり死後にその漁師と結ばれると。なにがあったのかは知らぬが、しかしこの世にはもうおらぬではないか。そなたは仕合せになりたいのではないのか?常世に未練を懸けては、この世の幸いをみすみす逃がすこととなる」
「だから探しておる」
「そなたの仕合せをか」
「そうじゃ」
岐勿鹿は両腕を広げた。
「私がそなたにそれをやろうと云っておるのだよ。私は肚津穢土の皇子だ。ここにいれば飢えも寒さもないどころか、水潮中の珍らかなるもの美しきもの旨いものまで手に入るのだ!何の心配もいらぬ。そなたのことは私が守る」
「そりゃあ楽しかろうが…………」
「なにか不服が? 」
「おれの探しとるものは、本当にそれじゃろうか? 」
「なに。すぐにとは云わぬ。この国をよく見、私のことをよく見てくれ。そうすれば気も変わる。そうだ、父にも合わせてやらねばな。今宵は宴といたすことにしよう」
その晩、宴は盛大に催された。岐勿鹿の父始肚鹿、父王の母、父の姉とその婿と子ども、父王の従兄弟たちが列席した。岐勿鹿の快復を祝し、タマヨリも歓待を受けた。
「いつまでこの屋敷にいてくれても構わない」
というのは父王の本心だったろうが、正式な家族でなくては以後の食事を共にしないのも父王のやり方であった。
請われるままに屋敷の一室で寝起きすることになったものの、タマヨリにはひとりきりの食事は味気なかった。
数日が過ぎ、従者の淤緑耳は主を前に、
「タマヨリヒメ殿はお食事はよくお召し上がりになりますが、あとは………」
と云い淀んだ。
「まだ私の妃になるのを承知せぬのか」
岐勿鹿の物言いには、呆れるような調子が含まれている。
「はい。ワタクシの顔を見るなり、見張りを付けるなと暴れたり、剣を返せと詰め寄ったり………。なんとも手がつけられません」
淤緑耳は思案げな顔を作ったあと続けた。
「思いますにあの方は皇子のご伴侶となるにはいささか粗野が過ぎるかと。どこの馬の骨……いえ、自由奔放でございますゆえ………」
「淤緑耳は何事につけ細かいからな。タマヨリはああ見えて淑やかなところもある、ここでの暮らしも長じればそれ相応の振る舞いもできよう。何も案じることはない」
噛んで含めるように云っても、淤緑耳は薄くなった頭を振るばかりだ。
「しかし………。いくら命の恩人とはいえ、一族にお迎えするのはどうかと。皇子にはもっと相応しい方がお見えになりましょうぞ」
「ああその話はもういいのだ。私があの娘を妻にしたいのだ。タマヨリといると気が晴れるのだ。兄を亡くして心にぽっかり空いた穴をタマヨリだけが埋めてくれる」
「皇子が萱釣さまのことでご傷心なのは淤緑耳も心得ておりますが、しかしそのような平時でない時だからこそなおのこーーー」
そこまで云った従者を岐勿鹿は遮った。
「そなたが反対する理由は、結局そなたがタマヨリのことを気に入らぬだけであろう。暴れるだの大袈裟に言い立てて」
「いえ、そのようなことは」
「いいか淤緑耳。
タマヨリは、死んだ兄と結ばれると信じておる。死人とだぞ!
むごいではないか。彼女の幸いはこの栄華の都肚竭穢土にあるというのに。この屋敷なら何の不足も不安もなく暮らせる。帰る場所足りえるのだぞ。
タマヨリを仕合わせにしてこそ、我らが肚竭穢土の主神『大海神』もお喜びになるというもの。
私の命を救った大いなる海の王の意思とは、そうではないか?きっとそうに違いないと私は思っているのだよ」
「それが『大海神』の意思だと仰るのでしたら、この従者ごときが申し上げることはございません」
「分かってくれて嬉しいよ」
岐勿鹿の笑顔はいつなんどきも曇りない。淤緑耳は小言の続きを飲み込んだ。
「ああ、いたいた岐勿鹿!」
入り口の垂れ布跳ね上げてタマヨリが入ってきた。後から世話役の女が追ってくる。
「おれ海に行きたいんだ。でもその人が岐勿鹿がいいと云わないとだめだって云うからさぁ。いいよな、海まで行って」
「タマヨリ殿、屋敷の中を走ってはいけませんぞ。お前もだぞ」
とタマヨリのついでに淤緑耳に注意された世話役は、恐縮して部屋を退去した。
「まあまあ」
と云いつつ岐勿鹿は少し考えると、
「いいぞ。馬で連れてってやろう」
と答えた。
「ひょー!馬でか?乗るのか? 」
「ああ、海までひとっ飛びだ」
「お供にワタクシの倅の黄耳をお連れ下さい。すぐ呼んで参ります」
「なぜそなたの息子を連れて行かねばならんのだ。私はタマヨリとだけ行きたいのだ」
「何かあってはいけませんから」
「よいよい。大丈夫だ。誰か!馬をもて! 」
庭に向けて声をかけると、「さあ行こう」とタマヨリをうながした。
「タマヨリ殿。皇子をたぶらかすような真似はゆめゆめなさいますな」
と苦虫を嚙み潰したような顔の淤緑耳に、
「たぶらかすだ?そんなわけあるかっ!べーっだ! 」
とタマヨリは舌を出して背を向けた。
「本当に仲が悪いな」
と岐勿鹿はくったくなく笑った。
続く