野菜の焼き浸しの間違いなさがこわい【7/21】
夏がまっさかりのTwitterには、焼いたり揚げたりした野菜たちが汁に浸された食べものがとてもおいしい、という情報が流れがちな気がする。
ここ数年の傾向な気がしているのだが、今年ついにその波にのった。
ズッキーニやパプリカ、にんにく、ピーマンなどを多めの油でしっかり焼いて、焼き目をつけて、めんつゆとカンタン酢でつくった汁に浸し、冷蔵庫にぼんって放り込んだのだ。
いや、厳密には放り込んではいない。
むしろ両手でしっかり保存容器を抱えて、落とさないように気をつけながらスッと冷蔵庫の棚に置いた。割とていねいである。でも、なんでだろう、気持ちのうえでは「放り込んだ」のほうが近いのだ。
………ってなぜだろね? ちょっと考えてみよう。
それにはたぶん、この料理の工程の持つ「豪快さ」のようなものが影響しているんじゃないだろうか。ちなみにレシピそのものではなく、私の手つき、やり方が単に豪快っていうはなしだ。
どの野菜もわりと適当に、気分まかせて刻んでいたし。
焼くときも、なんとなく、なんとなくで焼いた。焼き色には、よくいえばグラデーションが、悪くいえばむらがあった。
めんつゆとカンタン酢もほぼ目分量。
野菜を焼くとき、ときどき油が元気よく跳ねて、ときどきちょっと手にかかった。やけどしない程度のわずかな量だけど、その一瞬はひいってなる。
ひいってなる以上はなるべく自分に優しくしたい。でも、いちいち気にしていると、もう野菜なんて焼いている場合じゃないぜってなってしまう。
結果、もう油ハネなんて、気にしているけど気にしないぜ、つまり気にしていないってことなんだぜっていう、豪快なマインドが生まれるのだ。
そして、豪快をまといながら作りあげた焼き浸しはなぜこんなにもうまいのか。雑に作ったとは思えないうまさ。
焼いたことで甘みや旨みをぎゅっと引き出してもらった野菜たちが、汁のなかでぷかぷかと過ごすことによって、冷蔵庫のなかで、いつのまにか爆発的にうまい食べものに進化していく。
自分がそこまで全力で仕事してなくても、素材が全力で仕事してくれているから全然大丈夫ですよって味がする。
労力の総量を考えると、あまりにもいわゆる「コスパがよすぎる」世界。自分んちでこんなにうまいものを、こんなに簡単に食べられてしまうこの世の中がありがたくもあり、こわくもある。
ちなみにこわいのはなぜかというと、食い過ぎてしまうから。
おいしいものはだいたい食べ過ぎてしまうんだよね。