「置き場」第7号から気になった歌+感想
「置き場」第7号に寄せられた連作から、それぞれ気になった一首を引きました。以下、敬称略で失礼します。
以上となります。取り上げた歌のいくつかについて感想を。なお、選ぶ歌についてはただただ私の好みのため、前回、前々回と同じ作者の歌を選ぶこともあるかもしれません。贔屓目というか、作者名から恣意的に選んでいるわけではないため、ご容赦いただければ幸いです。
三句以降のフレーズにとても惹かれました。「金曜は始発でかえる」という状況から可惜夜へと思考が動くのはなんとなくわかるのですが、自分が可惜夜になるという可能性に辿りつくのが驚きです。しかもそれを母親に報告している。親からすれば、子どもが亡くなったら、などという仮定はなるべく想像したくないでしょう。しかしこの主体は、例えば皮肉的に言っているわけではなく、無邪気な顔でこの発話をしているように思えます。そこに真実味というか、本当にこの人は可惜夜になるのではないかと思わされる力がありました。
三句以降の状況に置かれたとして、「僕のこと嫌いなんでしょ」と思うのか?というのが第一印象だったのですが、よくよく想像してみると、わざわざセロリをかじるところを見せてくるのは、確かにどこか絶妙な嫌さがある(?)行為のように思えてきました。その絶妙さが短歌として非常に面白く、そもそもセロリってそんなにかじるような野菜でもないんじゃないか、などを考え始めると、どこか良い意味での可笑しさがあり好きでした。
現代アートか何かの展示でしょうか。「鍵盤を抜かれたピアノ」というアイテムに惹かれるものがありました。いわば、本来の役割を喪失してしまったどこか象徴的なもの。まずそれが展示されているところが興味深いですし、「だったよね」という伝聞のため、主体からするとその造形を想像することしかできません(もしかしたら「ピアノのようなもの」だったかもしれない)。その不穏さと、おそらくはある程度親密な「ふたり」の並置が魅力的でした。この「ふたり」がこの後どのような会話をするのか、展示されているものは本当はどんなものだったのか、想像の余地がある歌だと思います。
この「エチュード」は練習曲ではなく、演劇の練習などで行われるいわゆる即興劇のことでしょう。まず「金星の言語」とは?という疑問から、さらに「いつか酸化するから」という、台詞に対しては使うには不思議な言葉遣いに続きます。まさに即興的というか、わからないながら非常に惹かれるものがありました。そして個人的な直感なのですが、「金星」や「酸化」という語は、単に<金→金属→酸化>という連想ではなく、それがそれである必然性、言語化が不可能な何か、があるように思います。
二句に「ねじれた」という語がありますが、歌自体にもねじれがあるような歌だととりました。前半の、「まっすぐな草でねじれた冠を編む」は景として分かりやすいでしょう。冠というと、どちらかといえば花冠のイメージがありますが、草でも冠は作れるのでしょうか、どちらにせよ好きな景というか、良いな、と感じます。そこから四句~結句にかけての「~前は古墳だったの」という意外過ぎる着地。何が「古墳だった」のかは分かりませんが、古墳はある程度位の高い人の墓ですから、冠という語との共鳴があります。はっきりと意味が取れる歌ではないと捉えましたが、迷わされるような感覚が非常に好きでした。
初読で笑ってしまいました。景は明快で、確かに、という共感と「ほんのひととき」という微笑ましさ。おそらくすぐ鳴き止んでお互いの散歩に戻るのでしょう。語としての印象は逆というか、「喧嘩」や「盗れる」という語はどちらかといえばネガティブなイメージなのに、こう書かれると一転して穏やかな日常の風景になる。例えばこれが「人と人が喧嘩をすれば」ではただでは済まないし、「ほんのひととき」とはいかないでしょう。こう考えていくとさりげない技巧が凝らされていて、しかしほんわかとした雰囲気は崩れていない、純粋に良いなと感じました。
最後まで読んで下さりありがとうございます。誤字等あれば言っていただければと思います。
また、私は「絵と夕日」という連作で参加しているので、読んでいただけると嬉しいです。
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