「置き場」第4号から気になった短歌+感想
「置き場」第4号に寄せられた連作から、それぞれ気になった一首を引きました。以下、敬称略で失礼します。
以上となります。取り上げた歌のいくつかについて、評というか感想を。
擬人化による、「流行りのように観に来る」という書き方に納得感があります。夏は一年周期で来るわけですから、流行に似ているのは当然と言えばそうなのですが、こう書くと、夏がひょっこり顔を見せたような親しみがあって好きでした。「わたし」が動いているところをふらっと見物に来るような。観に来る、の対象を「気化熱」としたのも良いなと思います。
初句、樹の叫び、というのはどこか分かるような気がします。長く風雪に耐える痛みとか、生命それそのものの痛みとか。そこから、からだを失うというのはすごい展開ですが、その叫びの強さが感じられます。どこか、森へと強い思いを寄せているような、あるいは思念だけになって森と一体化してしまうような、そんな感覚も覚えます。わからない部分はありながら、非常に美しく、好きな色合いを持った歌でした。
連作の流れとしては、これは主体の父の運転する車に乗っていた記憶、ということでしょう。ただ、その文脈を抜きにしても不思議な感覚がある気がします。この車を右ハンドルとして解釈すると、「左でしか鳴らせない」というのは、かなりわずかな差ですが運転手と距離があることになります。加えて、内側ではなく「外を見ていた」となると、主体の視点は車内ではなく外に向かっていることになり、運転手との距離感、外の世界への憧憬なども感じられます。
上の句までは待ち合わせか何かの景かな、と思わせて、下の句にねじれがある気がします。どの街にもある看板というのは確かにありますが、こう書かれると「あなた」と「看板」が融合したような感覚があります。私自身、文法その他には全く自信が無いのですが、上の句は現在形なのに対し、下の句で過去形になる点(と終助詞「よ」)が、上手く意味を攪乱しているような感じがします(例えば「あなたはどこの街にもいるね」ではこのニュアンスは失われるでしょう)。現在の視点と回想が一首内で混ざっているような、妙な認識・不在感をとても興味深く読みました。
実景として捉えると、尾骨あたりに手が触れて、尻尾の良さのことを思った、と解釈できます。ただ、言葉をそのまま読むと、あたかも尻尾がある主体のように思えてきます。本来手が触れるであろう部分が省略された結果、幻の尻尾に触れていることになっている。そのずれが面白く、実際に尻尾が生えている主体として読んでも、改めて尻尾の良さを確認している感じでかわいくて良いなと思いました。
歌全体がソナタ形式の曲の比喩になっている、と取りました。「すこしちかづいて」が提示部、「はなれては」が展開部、「またちかづく」が再現部、というふうに。では「うごかない小鳥」とは、というと、短歌で言うところの、伝えたいことや真実にあたる、それこそ言語化が不可能な部分の比喩だと解釈しました。それが「うごかない小鳥」なんだというところに驚きと納得感がありますし、あくまでも近づくだけでそれそのものには決してなれない、というところに強い切なさと共感を覚えます。
上の句、凄くわかります。確かに、スーパーのあの異様な感じ(コンビニとも少し違う)はスーパーにしかない気がします。下の句は主体と誰か、少なくとも手をつなぐような間柄の相手との描写ですが、この異様な店内で手を放してしまったら、しばらく再会出来ないんじゃないかという不穏さがあります(「放す」には束縛からの解放という意味もありますし、「手放す」という語も想起されます)。実際には「手をつないだり放したり」している時間は数分程度の単位なのだと思いますが、こう書かれると、それこそ「異様」な時間を二人は過ごしてしまうのではないか、という日常の裂け目みたいなものを感じられて好きでした。
最後まで読んで下さりありがとうございます。
こういう試みは初めてな上に文章を書くのが苦手なもので、かなり拙いものになっているかもしれません。誤字、瑕疵、あるいは何か失礼なことがあれば言っていただければと思います。また、私は「字が消える」という連作で参加しているので、良ければ読んでいただけると嬉しいです。