大切なのは命よりマンコ。女性にAEDを使うのは違法になるか?
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Twitterでしばしば盛り上がるのが、「女性にAEDを使用するのはセクハラに間違えられそうで躊躇する」という話である。
私はよくNHKのこの記事を目にする。
(もっとも、今となってはこの話題もTwitter Japanによるトレンド操作だったのかもしれない)
「女性にAEDを使用すると、セクハラと間違えられてしまうのでは?」という男性陣への不安についても、同記事に以下のような回答が記されている。
しかしだ、この手のニュースを見ると疑問に思う事がある。
それは、「AEDを使う事が良い事」だという前提がある事だ。
本当に女性にAEDを利用するのは正しい事なのか?本当は間違っている…すなわち、女性にはAEDを利用しない方が良いのではないか?
私がそう考えるのは、女性が信用できないからではない。
「命は何物にも代えがたい」という発想がそもそも現代では間違っているのではないか?と思うからだ。
つまり、「セクハラに間違えられるから使わない」ではなく、「AEDはセクハラだから使用してはいけない」という可能性を考慮しているのだ。
命が至上というイデオロギー
「何に代えても命が一番大事」というのは数多あるイデオロギーのうちの1つにすぎない。
女性にとっては、命より性的自由の方が大事かもしれないのだ。
世の中のニュースを見てみよう。
娘を強姦した父親は懲役4年の判決を受けている。
条例違反(盗撮)でも罰金50万円である。
一方で、母親が子供を殺害した際は、執行猶予が付いている。
母親による子供の殺害に対して世間が甘いのはこの事件に限った話では無い。
ある事件では、減刑どころか残りの兄弟をそのまま子育てさせるように望む署名運動まで起こっている。
娘を強姦した父親を見て、「お父さんも疲れていたんでしょう。彼には罪を償いながら他の姉妹の子育てをさせてあげたいと思います」などと言う人間がいたら頭がおかしいとしか言えない。
だが、母親の子殺しにはそんな主張が出てきて多くの支持を集めているのである(上の署名には38,000人が賛同している)。
米国では一生牢屋の中に入るような罪を犯しても、日本ならば執行猶予か数年の服役で終わりである。
参考:日本の「児童虐待」刑罰は軽すぎる。同じことを米でしたらどうなるか
女性の子殺しに日本は非常に甘いのだ。
これはチェリーピッキング(私が母親に甘い判決が出た事件だけを探して提示した)訳では無い。
女性の子殺しに甘いのは統計にも明確に表れている事実である。
女のスカートの中を盗撮すれば罰金、娘とセックスすれば懲役4年。
でも人を殺める分には執行猶予…
こうした例から言えるのは、(状況によっては)命よりも女性の性的自由や尊厳の方が"重い"という事である。
俗な言葉でいうならば、「命よりマンコ」ということである。
母親が「子育てに疲れた」と言えば子殺しにも執行猶予が付くのに、父親がストレスで性的暴行したら実刑判決。
命より穴。これが現代の価値観なのだ(利根川先生もビックリの価値観である)。
なぜ女性にAEDを使ってはいけないのか?
さて、以上の事からこの社会は(部分的とはいえ)「殺人より性犯罪の方が罪が重い」という状況にあるという事が理解して頂けたかと思う。
ここでAEDの話に戻る。
AEDを始め、救命のためにとる行動は本来であれば性的自由の侵害(性犯罪やそれに類する行為)そのものである。
「服を脱がす(AEDの利用)」
「胸部に触れる(心臓マッサージ)」
「キスをする(人工呼吸)」
「相手の状況を見て確認する(見るハラ)」
こうした行為が許されているのは何故だろうか?
言うまでもなく、それは命には代えられない(=救命行為なら仕方がない)からである。
これは私の意見ではなく、刑法の緊急避難行為も(大雑把にいうと)同様の考え方である。
問題はこの文の「生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない」という一文である。
これを、現代の価値観(命よりマンコ)に当てはめると、"生じた害(性的自由の侵害)"が"避けようとした害(命の危機)"の程度を超えてしまい、緊急避難が成立しなくなってしまうのである。
つまり、"命よりマンコ"の価値観が是なら、女性にAEDを使用した場合、AEDの使用によって発生する一切の権利侵害が免罪されず、そのまま罪になってしまうという事なのだ。
命より重いものがある…それは不思議な事ではない
「命よりマンコの方が重い。故に女性にはAEDを利用しない方が正しい」と言うと、意味の分からない馬鹿げた話に思うかもしれない。
しかし、命より性的な自由が大事というのは、別に不思議な事ではない。
"尊厳死"という概念がある事からも分かる通り、人の尊厳はしばしば命より優先されるものである。現に性暴力は「魂の殺人」と形容されている。
命は至上のものではなく、しばしば命と同じかそれに匹敵するもの、場合によっては命以上に大切なものがこの世界には存在するのである。
「命に変えられないものはない」
「"命"はあらゆる権利の中で最上のもの」
「女性はAEDを使用され、生存率を向上させたいはずだ」
こうした想いは人道主義でも人権擁護でもなく、数多ある価値観のうちの1つに過ぎないのだ。
我々は何を守るべきなのか
女性の命と性的自由、重いのはどちらなのか?
(男性は命も性的自由もどちらも軽いです)
もし、例示した児童虐待のように、殺人より性犯罪の方が罪が重いのであれば、それはつまり「命より性的自由の方が重い」という事であり、倒れている女性を前にした時、正しい対応は「AEDを利用しない」の一択である。
私は何かと民主主義に限界を感じているのだが、「命が至上」という民主主義社会において一般的であった価値観も、そろそろ終わりを迎えるのかもしれない。
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