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21歳でなぜムスリムになろうとしたのか
中途半端なムスリムとしての生い立ち
私はムスリム系インドネシア人の父と日本人の母を持つ。
幼少期から豚を食べなかった。
でも自分がイスラム教徒だという意識は、はなはだ感じてなかった。
父が豚は汚いから食べてはいけないというから、私は食べなかった。
21歳の今に至るまで、お祈りの仕方も知らなかった。
父はそこまで敬虔なイスラム教徒ではなかったのか、それとも日本で子供をムスリムとして育てる難しさを感じていたからなのかわからないが、アッラーについて、イスラム教徒のあらゆることについては、息子の自分に教えなかった。
私は、高校まで豚肉を食べなかった。理由は知らないが豚は食べてはいけないものだと教えられてきたから。しかしある放課後、友人数人と豚骨ラーメンを食べに行った。心の底では、ソーセージやラーメン、豚丼などに憧れを抱いていた。
初めて豚骨ラーメンを食べたとき豚肉のおいしさに感動した。それ以来、豚肉やお酒を隠れて摂取し続けた。父に背いているという罪悪感はあったが、ムスリムとしての罪の意識は全くと言っていいほど皆無である。私の当時の意識は、「なぜイスラム教徒はそれほど縛られた生きづらい選択をするのだろうか。豚肉もおいしいし、お酒もおいしいしイスラムのルールに縛られるよりも、自由に生きたほうがよっぽど人生楽しい」と考えていた。
人生の起点と転機 1
そんな私に転機が訪れる。21歳の春、外国人でムスリム教徒の女の子と出会った。初対面から、はつらつと挨拶をかまし、まぶしいほど明るい性格を持っている彼女にはどこか魅力があったのだろうか。
自分は彼女の底なしの明るさと力強さにひかれ友達になりたいと思い、私たちはすぐに友達になった。私にははっきりと見えた。彼女の生きる軸が、信念が、信仰が、信条が。
何がそんなに彼女を強くさせているのだろうかと考える。
他の要因もあるだろうが、おそらくそれはイスラムがそうさせているのではないかと感じた。
人間をこんなにも強く見せる、イスラムというものに少し惹かれ始めた。
そして、ムスリムの厳しいルールの中でも、人生を謳歌しフルで楽しむ彼女をみて、たとえ豚が食べられなくても、お酒が飲めなくても人生はつまらないものにはならないのだということも感じた。
彼女との出会いは私がムスリムになろうとした理由の一つである。
人生の起点と転機 2
そして、もう一つムスリムになろうとした理由がある。それは人生に平凡さを感じていたからだ。
私は、彼女もいない。運動神経もよくない、背も低い、アトピー持ちで、歯並びが悪く、頭も切れない。思考することが嫌いで、いつも思考を放棄し、困難を避け、自分の娯楽と快楽のためにただ人生を怠惰に過ごしてきた。20歳を過ぎたあたりから、なぜ私は生きているのだろうと考えるようになった。周りとの能力の差に悩まされいつも、その差から目を背け、楽な道に逃げてきた。努力が嫌いで、続けることが苦手で、面倒くさいことは何でも後回しにする。誰が見てもどうしようもない人間性。
でもそれをうまく隠して生きてきた。馬鹿なふりをして、ADHDのふりをして。
ある日三島由紀夫の言葉を目にした
三島由紀夫はこういった
「人間は自分のために生きて、自分のために死ぬほど強くはないのであります。
本来、人間は何か理想なり、何かのためということを考えて生きるもの。
自分のためだけに生きることはすぐ飽きてしまう。
すると死ぬのも何かのためというものが必ず出てくる(死ぬ目的)。それが大義。
大義のために死ぬ、ということは人間にとって最も華々しい死に方だと考えられていた。
死がいつ来るのかと、緊縛的に考えて生きていた時の方が極めて幸福だった。
今の時代、我々が求めているのは、家族だの、レジャーだの、生きるための幸福だ。」
彼の言葉を聞いたとき私は気づいた。
自分のために生きるのには、飽きてしまったのだ。
まさしく私は大儀を求めていた。生きるための大義を。生きるための目的を。
生きるための活力と困難を乗り越えるためのエンジンを。
ムスリムとしての今
この主な二つの理由が、私がイスラムを信仰しようと決定したきっかけである。
今、私はアッラーと距離を近づけるために生きている。人生をアッラーにささげている。
まだ、お祈りの言葉もアラビア語で言えない。でも、私は見つけた、人生の目的を。
多くの善行をし、多くの祝福を受け、苦しむ人々を助け、審判の日にアッラーとより近づくという目的を。死とその先のものを見据えた生き方を私は見つけた。アッラーのためなら、苦しめる。
もう豚も、酒も恋しくない。
アッラーの慈悲の元、私は強く生きていくと決めた。
イスラムには、様々な偏見がある。
「過激派」「テロ」「女性差別」
しかし、イスラムを学んで気が付いた。
この宗教は、人間がまっとうに、人間らしく生きるための心の支えだと。
こんなにも美しい宗教だということを皆知るべきである。
みんなへ
自分も最近まではそうだったように、日本の多くの若き侍たちには目に魂が宿ってない。それは、自分の人生の目的を見失っているからではなかろうか。
同世代の若者たちよ、アッラーを信じろとは言わない。
だが、世俗化され、資本主義の渦の中でもがき苦しむ日本の若者たちは、生きるための大義を見つける必要があるのではないだろうか。
なんでもいい、それのために全力で苦しむことができるのならば、、、