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ポエム、はじめました

しばらく、記事を書けずにいました。

というのは、noteが「クリエイターのための表現の場」としての色合いが濃かった当初自分が受け取っていたムードが、より一般的な「情報発信基地」としての機能を期待する読み手によって、変わってきているのを感じたからです。

感じ取るのが遅すぎた、かもしれません。
わたしがAI関連の記事を書いているせいで、オススメ記事に偏りが生じているからかもしれません。

ただ、読み手の期待値調整をするなどの、配慮が必要になってきたことを強く感じています。

というのは、書き手はいわゆる表現行為として書いていても、読み手は「情報収集」で読もうとしているケースが、かつてより増えていると思い知らされることがあったからです。
いくらマガジンの説明に「エッセイです」と注釈を入れたとしても、大抵の人はそんなところまで読まないので、AIのような機能的な価値を期待されがちな先端ジャンルで「表現の遊びとしてわざと」機能的な記事っぽいタイトルをつけることは、「つり」のように受け止められ、嫌な気持ちにさせてしまう。

個人的には、岡本太郎的なある種の暴力性に、表現の価値を置いています。

期待と言う名の欲望に応え、あるいは期待を越えて欲望を掻き立てていくことが商業世界の正義なら、芸術の正義は、期待を裏切り、それが欲望の囚われであることを突きつける入り口をそのあちこちに立てかけておくことだと言えるだろう、そんなふうに思っています。

そしてそれが、商業的なものに表現衝動の一部を注ぎ込んでいる人間が世界の均衡を保つために行う贖罪であり、自らの均衡を保つために不可欠な生命活動だと思っています、

とはいえ、すばらしいクリエイターは、それを「その準備ができているひとにだけその入り口が見える」ように設計するものです。

商業的なルールに則り、それを時に逆手に取るような芸術的な挑戦を染み込ませている。

それを実現するには天賦の才を持ってしても想像を絶する労力が注ぎ込まれているわけで、そのような傑作を作ることなど、わたしのような家庭も仕事もみたいな欲張り人間には欲張りがすぎるというもの。

それでも、なんとかこの均衡のための表現を続けるためには、どうしたらいいだろう。

そんな、自分以外には極めてどうでもいい問いにからめとられ、しばらくわたしにとっては呼吸のような表現ができず、メモにらくがきしながら、社会的には息を止めていたわけですが、

「ああ、だよ、だから、詩があるんだよ」

と思い至りました。

2語文、3語文が口にできるなら、物心もつくまえからだれしもが紡ぎ出せるのが、詩です。

そして、そのなかに幾重もの意味を織り込めるのも、詩。

まさにアルファにしてオメガ。

小学生の頃、ズームイン朝の「朝のポエム」が好きだったこと、ヘッセの「詩人になりたい、でなければ何者にもなりたくない」と言った逸話にハートを撃ち抜かれたこと、今最も尊敬している人である、オットー・ラスキー博士も詩人であることを思い出しました。

忘れてたし、たまにこっそり書き留めるだけで大して読みもしないけど、詩は、こころのなかで生まれては消えていき、時に目にして心を動かす、いつもささやかにそこにある。

ポエマーだとかポエミーだとか英語の「ポエ」って音が軽すぎるからか、詩をバカにする人もいるけれど、人は生まれながらに職業にするまでもなく詩人で、自らを詩人と認められるかどうかはその事実に降伏しているかどうかの違いでしかないじゃないか。

そうだよ、言いたいことは詩にしよう。

そうすりゃ、「情報収集」のひとは「ポエムじゃんw」ってスルーしてくれるじゃん。

読むのも楽だし、見下されている分には、暴力にはならないし。最高。

というわけで、さっそく詩を投稿してみました。

ケンカの多いうちの姉妹に、ふざけた劇みたいにしてよく話していたネタを一編の詩にまとめてみました。

おひまなら、読んでみてね!


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ゆっか
自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。