子どもの才能をそっとしておく力
だれのせいかもとは言わないが、うちの次女は考え(すぎ)る子どもである。
一度不安を抱えると、その不安の対象相手に年単位で闘っている。
「電車」は2歳のときに、偶然見てしまったちょっとキモい車内動画広告をきっかけにはじまり、日常的な存在としてなじむのに5年以上かかった。
そして今は、数年前に受講していた探求学舎というオンライン学習のテーマでとりあげられた「ロボット(AI)」が、その対象である。
その授業にはたしか、AIが世界を変える。それはいいこともあるけれど、わるいこともあるかもしれないというようなメッセージが含まれていた。
その未知の可能性の広がりに圧倒されたのだろうか。それ以来、AIやロボットが怖いと言って眠れなくなったり、突然頭を抱えたりしている。
探求学舎は、子どもたちに考えさせるスタイルのオンライン学習で、それが魅力なんだけど、結果「考え(すぎ)る」ので、辞めた、あるいは自分から卒業した。
もう見られないと授業を離脱するほどの破壊力、辞めてからもう数年もその一回の授業のテーマを考え続けてるんだから、ある意味授業のパワーがそれだけすごかったとも言えるのかもしれない。
経営上は残念かもしれないけど、教育上は功績とも言えそうだ。
で、まあ新技術触るの大好きお母さんが家でAIと遊んでいた昨今(↓)、次女はまた考え続けていたのである。
そして、今朝。
「アナウンサーってみんなAIになっちゃうのかなあ?」
「うーん、(実際にしためちゃ長い話を要約すると)大きな会社はいきなりいっぺんにすることはないと思うよ。でも、文字のニュースではもうAIが書いてるところもあるよ」
「…みんなAIになったら、しっぱいできなくなって、だいすきなコーラが生まれないからよくないと思う」
そうなの?!?
すみません、まずコーラが失敗から生まれたって知らなかった。
コーラが大好きなことは知ってたけど、コーラ基準でAIを評価するって、シナプスのつながり方がすごい。
その後ゴミ袋持って一緒にマンションの外階段を降りてたら、
「不安でいるから、けがしないでいられるんだよね」
ってポツリ。
学校に行く支度を続けながら、
AIが失敗をしないのは良くない
↓
なぜなら、一見悪そうな失敗も良いものを作ることがある
↓
だったら、一見悪そうな不安にもいいことがあるはずだ
↓
不安だとケガをしない
というロジックがじわじわ進んでいたのだろうか。
実は、「不安にも良い面はある」は、わたしが伝えてきたことではある。
でも、それを伝えたらすぐに納得して不安にならなくなるわけじゃないし、こうして自分を燻らせてもう一度ロジックとして自力で組み立てたとしても、一回で「不安でもいいんだ」なんて受容できるほど、気楽な感情でもないと思う。
人間にはAIのような処理速度はない。これからもこうやって何度も何度も反芻し、経験を練り込みながら、考え続けるんだろう。
考える力を評価しようと記述式問題の拡大を試みた矢先、その手の文章はAIでも書けることが明らかになってしまった。
そのドラマチックな展開を見て思うのは、考える力をアウトプットで評価すること自体に、意味があるのかということだ。
考える力にも計算力から文章構成力までそもそも色々あるけれど、おそらく記述式問題で評価したかったのは、早く正答することではなく、物事を緻密に深く考える力(と説明する力)だったのではないかと思う。
それは簡単に答えを出してスッキリせず、その答えとして起こした行動の結果をまた咀嚼して何度も反芻して、本当にそうなのかと、考え続けることで発揮できる力だ。
つまり、不確実なものや未解決なものを抱え続ける力=ネガティブケイパビリティと言われているところにあるのじゃないかと思う。
でも、次女のありようを見ていると、こんなん評価の対象になったら他人の目や自意識が邪魔して、かえってできなくなっちゃうと思うし、
そういうことを可能にする生活の余白や、考えが深まっている瞬間を邪魔しないコミュニケーション(そっとしておく)の方が重要だと感じる。
測る対象が問題なんじゃない。
評価したい、自分の手柄にしたい、責任を果たしたと実感したい、
という大人の事情で、子どもの才能がほっとかれないことが問題なのだ。
もちろん、反復学習など教育によって伸びやすい力もあるだろう。でもこの手の計測しにくい力は、「不安」などの必ずしもポジティブに評価されない本人の内発的動機に導かれていることは、否定できないように思う。
伝記で描かれるのは、その人の不遇や困難ばかりで、最高の教育を受けて何不自由ない生活を送ったという記録はどこにもない。
大人になって自分の内面観察して思うけど、これこそまさに大人が考え続ける価値のある重要なテーマではないだろうか。
はあ、不確実で未解決な子どもってテーマは、身につまされることばかりで、ほんと重たい。
自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。