エンタメ総ポルノ化時代、「礼節」ある作品は「成人指定」されるのかもしれない話
あえて、ざわつくような文章を書きたいという衝動にかられるときがある。
のは、わたしだけだろうか?
アルゴリズムで、SNSのタイムラインが個人の価値観に沿ったものばかりになるなかで、認知的不協和を起こすような情報や表現への個人の耐性はどんどん落ちているように感じている。
作家たちがエンタメ=「見たいものを見せるサービス」をして、鑑賞者の精神を「眠らせた」後、物語終盤でアートとして「見たくないものを見せて目覚めさせる」のは、物語という空想の世界から現実に視聴者を返すという「お約束」、表現者の「礼節」であると感じてきた。
なぜなら、もう創造主によってエネルギーが注がれることのない世界に視聴者を幽閉したまま物語を閉じることは、視聴者を釣ったまま水槽に閉じ込める行為≒キャッチアンドリリースをしない、ある種の暴力だからだ。
けれども、最近同じオタクと話しているなかで、気がついたことがある。
それは、この最後で物語から目覚めさせる「礼節」の方が、むしろ「暴力」として非難の対象となっていることだ。
今や、完結した物語もリメイクされたり、二次創作が流通し続けることで、コンテンツとして新しいものが無限に供給される状態になった。
そして冒頭で述べたように、認知的不協和すなわち「見たくないものを見る」ことによる葛藤への耐性がなくなりつつある。
物語の受け取り手にとって、物語はもはや終わる前提で入るものではなくなり、永遠に物語の中で閉じ込められることを、自ら望むようになった。
「自分は、ただゆるい日常が見たかっただけ」
「読者の期待を裏切るのはひどい」
「何で物語で現実を見せる必要があるの?」
それは、不当な感想ではない。
ただ、期待に応え続ける、そういうジャンルの物語は昔からあった。
いわゆるレンタルビデオの大人のコーナーに並んでいるジャンル。
ポルノである。
前から「感動ポルノ」という言葉はあった。
泣くための演出が過剰な作品、泣けることを売りにしている作品を揶揄する言葉だ。
けれども、それが揶揄の対象になったのは、「礼節」ある作品こそが王道であるという前提があったからだ。
今は、それがもう逆転していると感じる。ポルノでないものの方が「アートぶってる」として締め出されつつある。
作品は、まずポルノであるべきであり、ポルノでない「礼節」が準備されている作品こそ、「R指定」ならぬ「A(アート)指定」のように、「この作品は後半であなたの期待を裏切る可能性があります」と分かるようにするべきだ。
そういう主張が非言語的にではあるが、オタクトークのなかに空気感として漂っているように感じるのだ。
noteのようなプラットフォームも、読み手に認知的不協和を起こすような文章は、いずれは「A指定」のような注意書きが自動で挿入されるようになるのかもしれない。
自分にとっては美しいと思う「礼節」が過去のものと成り行くなか、それを思うと尚、今のうちにこういうちょっと人の心がざわつくだろう文章を書いてしまうのである。