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月に置いてきたカメラ、嵐のなかに置いてきたカメラ。

昨日、肺炎と瞑想の記事の公開設定を変えた。

昨日は今読み返してみても、そう思うと書いたけど、2年半のときを経て、認識が広がり、より鮮明になったことがある。

それは、瞑想して得られる精神状態は、「悟り」に近い体験ではあるけれど、ロケットで一瞬月に行ってくるようなもの、ということだ。

瞑想でたどり着く、真理っぽいものが降ってくる場所。出家して俗世と離れて生活しているのであれば、日々瞑想を続けることでその状態を維持することもできるのかもしれない。

しかし社会的存在として、娑婆で人間の役割を担いながら、それは不可能だ。だからこそ、わたしたちには、大乗仏教が必要だったんだろう。

ただ、追記したいのは、月にカメラは置いてきたぞ、ということだ。

ふたりの子どもとの毎日。感情の嵐は台風シーズンのごとく日々直撃してくる。

けれど、嵐が去って疲れ切ったとき、わたしはそのカメラにスイッチを切り替えて、月から自分を見ることができる。

そこから見える今日は、すばらしい1日だ。

また明日、嵐が襲ってくるのだとしても、月は無風だから、安心だ。

わたしは人生の豊かさのひとつは、どれだけのカメラを、いろんな場所に置いてあるかだと思う。

そのカメラは、視覚的な意味だけじゃなくて、その瞬間感じた五感のすべてを含む。

歩くたび、蜘蛛がわーっと逃げていく冬の終わりの畑とか、それこそ、10年後には感じることができない(と信じたい)日々の嵐のなかにも、カメラを置いておきたい。

そうやっていろんなところにカメラがあると、ふとした瞬間にそこを覗いて他人事として観察したり、逆にそこからこっちを見たりすると、なんだか滑稽だったりしてたのしい。

ああ、日記を後回しにしていたら、結局日付を超えてしまった。

でも気にしない。寝るまでが今日、だもんね。

そして、こういうマイペースに日記を書いている夜にも、そっとカメラを置いて寝ようと思う。

おやすみなさい。

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ゆっか
自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。