のら庭っこ便り#009 2023 6/25 弐 「たくわえる」季節
※この記事は、虫の写真がテーマです。苦手だけど慣れたい方に向けて、風景的に撮っています。
自分が世界にはたらきかけていること。はたらきかけられていること。
種を蒔き、草を刈り、草を敷く。
虫が棲み、葉を食んで、卵を産む。
ここ「のら庭」の意図は、野菜を取ることではなく、この「はたらきかけあい」を感じることです。
誰かの作った手続きや枠組みのなかで暮らしている「いつもの世界」。
そこでの「はたらきかけあう」感覚は、役割とかお金とか「たくわえられた」ものが間に挟まって、どこか鈍くてはがゆい、遠い感じがします。
だけどここは、社会が決めた価値の檻の外。
いいとか悪いとか、成功だとか失敗だとかの定規が邪魔してこない。
風に揺れ、小さく細い手足を正確に動かす、虫たちの姿の美しさを遮るものはありません。
ときどき「何も意味がないように見えることにも意味があるんです」と、
子どもたちの遊びやふるまいについて語られているのを聞きます。
それは、そこに価値を見出そうとするメッセージではあるけれど、
そもそも「意味がないように見える」と言うときの「意味」って何を指しているのでしょうか?
「のら庭」の時間と言葉がない感覚にどっぷりつかっているとき、
何にでも誰かに何かを示すための価値という「意味」を表現するために日々行なっている、いろいろなことの方が、「意味がない」ように思い出されます。
意味が生まれたそばから使って、価値として「たくわえ」ない。
それがナチュラルな場所から見ると、役割に沿っていそいそと動き回るいつもの自分の姿は、「ままごと」をしているようです。
ここでいつも感じている「うわー」とか、「わお!」とかで燃やし尽くしちゃう、自意識がいらない反応と、
役割と機能、そこにくっついた目的に役立つかどうかっていう、自意識を支える価値にぶつかった反応は、同じ反応でも、まるで感覚が違う。
きっと、印象が跳ね返っている場所が違うのでしょう。
本当は、カメラも置いてきた方が、ちゃんと燃やし切れるんだろうって思います。
ここまでの2年は、ほとんどそうしてきました。
今でも、持っていかない日もあります。
でも、自意識の代わりに、カメラに跳ね返る、切り取られた図像としてだけの反応世界もあって。
今は、いろんな場所に跳ね返らせて変わる感覚を楽しみたい気分です。
とある虫と花とのコンビネーション。アリの行列を見かける場所も、毎回違う。
来年また同じ季節になっても、同じ風景は現れません。
カメラを覗いていると、確率や統計で同じような現象は予測できるように見えるけど、本当に起きていることは、全部一回きりなんだよなあって思います。
原因や目的の外で、はたらきかけあうこと自体に心をふるわせる時間。
あっちの世界にも「モノより思い出」「モノより体験」という似たような感性があるけれど、その言葉の根にはやっぱり、何かを手に入れるという「たくわえる」感覚があって、
それも愛おしいのだけれど、「たくわえる」ことで失われる「はたらきかけあう」感覚を、虫たちを通じて、取り戻している、そんな気がしています。
それはきっと、子どもたちが小さい頃に、「はたらきかけあう」世界を生きていた、彼女たちから受け取っていた感覚。
今やその子たちも、「あっちの世界」で「たくわえる」ことに没頭する季節です。
今度は、大人の方が「こっちの世界」で待とうとする、そんな自然の力学がはたらいている、のかもしれません。
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