見出し画像

AIがもたらす、「凡人」の時代

怒涛の1日過ぎて、夜、ちょっと仮眠のつもりが日付変更線を超えていた。

書こうと思っていた内容は午前に決まっていたのに、悲しい失態である。

それは子どもの通院の帰り道、偶然歩道の前を歩いていた警官を見て、子どもが「警官はかくあるべし」を大声で語り始め、

「けいさつかんは、いのちをすてるかくごをしなきゃだめだ!!」

と無邪気な圧を背後から放っていた話だ。

昨日のうちに遭遇した暴漢から市民を守るために、彼が命を投げ捨てていないことを祈るばかりである。

ちなみに、その流れで語った自分の未来は、

「いちりゅうのおいしゃさんになって、ママがこまってるときにいってあげる!

……きゅうきゅうばこをもって…!!」

と、一流なのに医療設備が家庭レベルという生活感ただよう微笑ましい世界観を映し出してくれていて、その万能感に満ちたテンションの高さと無邪気に高い志から、

昨日まで続いていた通院の日々が、いかにストレスフルだったのか、そしていかにいいお医者さんにめぐりあえたのかを感じずにはいられなかった。

そのあと、完全な余計なお世話でごほうびにゲットしてあげようとしたマツキヨ限定のちいかわのカードが、開催2日目にしてもうなくなっていたことからの絶望の谷。

で、その後また奇跡によって救済もされるんだけど、もうひとりの子に関しても大事な予定があった日で、日が落ちる頃には、目が棒線になる1日だったのでした。

Chat-GPT4が出たとかで、あっという間にいろんなことに実装されまくっている怒涛の社会の流れの片隅で、こっちは個人の感情の怒涛の渦に対応しているうちに1日が終了というせつなさよ。

ついにAI系のニュースでも、賢いおバカさん=はからずも天才系のアウトプットが取り上げられ、

天才と秀才は、もうAIでOKな世界線が見えてきている。

これらの記事でもちょっと触れていた話だ。

この流れと、関心がある自分ですら追いつけない感から思うことは、これからは凡人としての自分の感覚だけが頼りになるだろうということだ。

AIを使って稼いだり作品を世に送り出して価値を認められる人は、今既に高い技術と思考力を持ち、時間も十分にある人に限られる。

そして、これからはお金をもらいながら身につけたような雑事は現場に回ってこないため、最初からAIを管理できる視座を発揮できる高いパフォーマンスを個人的に身につけた選ばれし者だけが、そのステージに到達できる。

つまり、タダでもそれをやりたいくらい興味があって勝手に身につける天才か、AIが得意とする論理的思考力を俯瞰し、前提を再定義できる哲学的な思考力までを育成する高度な教育を受けられ、しかもそれに応えられる程度の関心と資質を備えている人以外は、人でありながら天才や秀才であることが意味をなさなくなるだろう。

それは、格差を問題とする視点からすると、絶望的な社会かもしれない。

でも、別の角度から見れば、凡人が無理やり戦略的に天才を演じる苦悩もななければ、秀才に仕立て上げられる悲劇もない、凡人が凡人であることが才能として価値を持つ時代とも言えるのではないだろうか?

終わるのはきっと、教材のキャッチフレーズでお馴染みの「クラスのみんなから差をつける!」世界だ。

インターネットによって国境が取り払われ、多様性が当たり前になった世界で、ユニークであることはあたりまえの事実でしかない。

むしろ、それぞれがユニークであってもなお「それ、わかる!」という共通の感覚の豊かさの方が、圧倒的に価値を持つだろう。

それも、言語モデルが触ることができない、エビデンスがあんまり意味をなさない、「ちょっと言葉にしにくい」領域だ。

未来の萌芽はいつも、誰もその芽を摘む気すら起こさない、見逃されている場所で育っている。

それは、きっとわたしたち凡人のなかにあるのだ。

凡人の未来は明るい。
安心して、ありふれた雨の土曜日を生きよう。

と、冷え切った最後の一滴のコーヒーを飲むために、意地汚くも保温マグの蓋を外す。

この記事が参加している募集

自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。