なぜ日本に‘‘フットボールカルチャー’’が根付かないのか。ぼくらは「コギャル」に学ぶことがある。
「わたし」より「ウチら」。一人称はいつも「複数形」
ーHUFF POSTよりー
千代田線の根津駅を降りて、坂を登ると東京大学がみえてくる。こんなところに美術館なんてあるのか、と思いながらその有名校に沿う路地をあるいていると古民家風の美術館が現れた。
弥生美術館。
4月4日からここで行われている「ニッポン制服百年史―女学生服がポップカルチャーになった!」を観にきたのだ。
ここで観た情報は最後のピースに十分であった。女性に生まれたからには大半の確率で経験する女子高生。ときに憧れであり、ときに時代の反映であり、ときに文化を創りうる彼女らの生態は、日本におけるカルチャーの成り立ちにおいても意味がある。彼女らの創りだした、発見したコンテンツはいくつあるだろうか。ルーズソックス、スクールバッグといった‘‘本職’’のものから写ルンです、チェキのようにいまもなお人気のある機器を嗜んだのも彼女らである。
ここでは特にカルチャーを席巻した「コギャル」にフォーカスをあてて物事を考えてみる。そして考えた結果、90年代にコギャルが席巻したカルチャーは日本における『フットボール』のカルチャーシーンでも応用できるのではないかと考えた。欧州をはじめとした海外で発展し続けるフットボールカルチャーは日本にも到達している。その世界的なカルチャーがブームでなく、真のカルチャーとして日本に根付くためにはどのような要素が必要なのだろうか。
日本流の根付きを考える。そのためには前例から学ぶ必要がありそうだ。あいにくその前例は生意気なんだけれど‥。
■その生意気な「コギャル」とはなんなのか。
昨年の夏、大根仁監督作品の映画「SUNNY 強い気持ち・強い愛」が公開された。どれくらいヒットしたのかは定かでないが、その世代にドンピシャだった元女子高生の反応はすこぶるよく、うちの母親も例外でなかった。
コギャルとは1990年代に大流行した女子高生のスタイルだ。メイクをばっちりし、群れで行動をする。パラパラを踊り、ルーズソックスを履き、渋谷の街へ出くわす。ガングロメイクやギャル語の生まれもこの時代からと言われている。そのあまりに他を寄せ付けないスタイルはやがて憧れへと変わる。いくつかの学校の生徒はなかでも高貴な存在であった。
流行が乱れ撃ちされる渋谷でコギャルのセンサーは敏感だった。そしてそれに社会も注目をし、専用雑誌も創刊された。それくらいの影響力を女子高生が持っていた。
https://www.mandarake.co.jp/information/buy/sby/book/fashion_90s.php
■なぜコギャルは流行ったのか。
コギャルのことをスタイルと称したが、そもそも彼女らはなぜ今も受け継がれるほどのカルチャーを残したのか。
考えられる背景として、彼女らが音楽・ファッション・メディアのポイントで要所要所自分らを表現したからではないだろうか。
ファッションシーンは一番わかりやすい。なんといってもルーズソックスや手首に巻いたゴムなど自分たちがカワイイと思ったものを徹底的に突き詰め使う文化があった。特筆すべきはそれがグループ単位で揃っていたことである。あそこのグループが青いカーディガンならウチらは赤なんて差別化も計られていた。実はコギャルは大枠では同じファッションなのだが、詳細は個々のグループごとに異なるスタイルを楽しんでいたというわけだ。
音楽シーンでは、安室奈美恵を讃え、放課後のカラオケやパラパラなどのブームを作った。渋谷の街ではクラブで踊る姿もあったらしい。当然制服ではIDチェックの対象になってしまうために、大人びた服装をすることもあったそうだ。そしてそのスタイルは、オフラインから逸脱する。のちにバイブルにもなる「egg」が創刊する。この雑誌の内容は渋谷で流行しているカルチャーを取り上げることであった。載っているモデルは「コギャル」読者は「コギャル」である。地産地消。農家さながらのモデルが渋谷で行われていた。
このようにファッション、音楽、メディアの要点を押さえイケている‘‘ウチら’’が注目されることは当然といえば当然だった。ライフスタイルの提示はもちろん、バブル崩壊や相次ぐ天災によるなにかモヤモヤした日本の雰囲気を「マジパナくない?」と一蹴する彼女らには、希望があったのかもしれない。
彼女らのカリスマだった安室奈美恵さん
■コギャルカルチャーの特徴
このように文化的な要素で要所を捉え、かつ女子高生特有のノリと無邪気さで怖いものがなかった勢いがカルチャーを広めたことはいうまでもない。
そしてその特異なカルチャーを分析してみると、流行るべくして流行ったと言わざるを得ない発見があった。コギャルが勢いがあった理由に直結し、今後フットボールカルチャーにも応用できるものである。
4つある。エンターテインメントといってもいいかもしれない。
①参加型
強いエンターテインメントは、圧倒的な演出を持っているか参加する人数が多いかの2つしかない。特に後者が優れている理由は、作り手は買い手になるからである。
コギャルのカルチャーを振り返ってみると、雑誌「egg」の登場がこの現象をわかりやすくした。コギャル内で完結することのできるこの雑誌は、コギャルが増えれば増えるほど、読者が増える簡単な仕組みであった。
実はこのコギャルが参加型であるという事実はエンターテインメントの勝者の‘‘あの場所’’でもおなじ現象を見ることができるから面白い。
②場所の確保
ディズニーランドである。ディズニーランドでは、主役がゲスト、つまりはお客さんに設計されている。テーマパークなのだから当たり前なのだが、主役に見せるための仕掛けがものすごい。
私たちはディズニーランドに行くと耳付きのカチューシャを買い、映えスポットの前で写真を撮りインスタにアップする。いまやインターネットの発達でどこでもイケている写真を撮影することが可能になった。しかし、加工された写真ではどうしても被写体の良し悪しで評価が決まる。
そうではなく、オフラインで訪れた場所に価値がある場合もある。それを用意したのがディズニランドがパークを作った理由であり、コギャルが渋谷にいた理由でもある。とかく、イケている縄張りを実際の土地で持っていたのだ。そこに行けばイケていたのだ。
さて、まだまだコギャルの秀逸さは終わらない。ディズニーに肩を並べるユーザー文化がある。場所がハードならば、ソフトの話である。
③新規スタイルの容認
ディズニーランドを歩いていると個々それぞれ異なる格好をしており、時に凝りに凝っているコスプレを見ることができる。前述の通り、その目立つコスプレは主役になることができる。現に全く知らないひとなのにディズニーランドのノリで一緒に写真を撮った経験が私にもある。それはディズニーランドがそれをしてもいい場所であるからだ。
当時の渋谷にもその風潮があった。グループごとに違うカーディガンでよかったし、スクールバッグのキーホルダーはグループを表すものでよかった。そもそもコギャルは自分らのカワイイを突き詰める修正だったことから他人のことはどうでもよかったのだろう。
つまりこの思考は、ウチら以外のコギャルを無視する形となった。それは側からみれば新しいスタイルを潰すことのない文化でもあった。
コギャルもディズニーランドにも共通しているのは、参加のハードルがグッと低いことにある。そして参加する場所が明確であること、主役としてメディアに出る確率も高いことが挙げられる。
④ブランディング
最後の発見はコギャルであることが憧れの的になるような仕掛けがなされていたことだ。特に雑誌の発行はカリスマ的な存在を見つけるにはうってつけであった。
当時のコギャルはイケていればイケているほど雑誌に特集された。これはマインドの話で、自分たちのためにカワイイを突き詰めたグループが雑誌に取り上げられ、カリスマとなっていった。いわば雑誌はおまけで自分らに自信のあるグループの方が魅力的であったというわけだ。結果的にそのスタイルが特集をされるから表面的なファッションなどが映える。
ビジュアル(視覚)はフィロソフィー(哲学)の可視化であるなんてことを考えることがあるが、コギャルも同じなのだろう。
つまり、コギャルのカルチャーはエンターテインメントとしても非常に優秀であった。①参加型のスタイルであり、作り手が非常に多く②渋谷に集まればコギャルの仲間入りができ③自分らに着目を置いた思考から、新しいスタイルの参入が容易であり④カワイイを突き詰めると周りに崇められる仕組みもできていた。
現代エンターテインメントで成功しているディズニーが行っている仕掛けと同じようなことが90年代の渋谷で起こっていた。仕掛け人はウォルト・ディズニーではなく、パねぇ女子高生だから驚きだ。
コギャルのカルチャーは広まるべくして広まったのかもしれない。それくらい秀逸なものであり、カルチャーモデルとして面白い。
■海外のフットボールカルチャーの現状
さて、ぼくが普段熱心に勉強しているカルチャーはフットボール(サッカー)が作り出すものである。中でも最先端として崇められるフランス、イングランド、イタリアの列強は面白い。そしてそれと比較して日本ではカルチャーがないと揶揄されることも多い。
一般にフットボールカルチャーがある状況とは、街にフットボールがさも自然に溢れている様子と解釈している。例えば一等地にあるクラブのオフィシャルショップやいたるところに貼られているバナー、街歩く人の服装がユニフォーム、路上のストリートサッカー、挙げればキリがない。
現代フットボールカルチャーの1つにフットボールコミュニティの存在がある。特にインスタグラムが発達してからは、各国のカルチャーが容易にみれるようになった。街中でスナップを取ることもそのコミュニティ活動の1つである。メインアイテムをフットボールゆかりのあるものにし、街中で写真を撮る光景は日本人にとっては奇妙かもしれない。
しかし、海外にいくとそんな感情がなくなる。いくつかのフットボールがある国に行き実際にこの目で見た結果、想像以上にユニフォームが日常の服として普及していることがわかる。それは一般に強豪国と言われる国だけではない。アジアでもそうなのだ。
3月に訪れたタイでもそのような景色を見ることができた。そして驚くことにその着られているユニフォームは強豪国のビッグクラブのものではなく、自国のローカルクラブのものもだったりする。露天でフルーツを売るお姉さんの衣装が、
フットボールなのだ。
■制服は箱から逸脱する
コギャルに戻ろう。
彼女らの衣装をよく考えて見ると、小さなアイテムに差はあれ基本的に制服をベースにカスタマイズしている様子がみて取れる。いわばそれがコギャルカルチャーのアイデンティティだ。簡単に判別のつくソレを着て街に繰り出すことがよかったのだろう。
冒頭で「ニッポン制服百年史―女学生服がポップカルチャーになった!」が最後のピースになったと述べた。というのも鑑賞前までは、自らの制服のデザインやカスタマイズのイケている感じを魅せるために渋谷に繰り出しているのだと思っていた。制服のデザインの良し悪しでカーストが決まってしまうような時代で、良いデザインは外にアピールする絶好のチャンスだったはずだ。しかも雑誌も発行されている。
しかし鑑賞後、最後のピースは形を変えてハマる。コギャルが街に繰り出したきっかけは、渋谷がそのカルチャーを受け入れる場所だった、ただそれだけである。いくら制服のデザインを一般ウケするものにしようが、雑誌に載ろうが当時の彼女らには‘‘着てもいい場所’’がなければそれをアピールすることさえできなかったのだ。
制服は本来学校の中でしか着る必要のないものである。いわば授業を受けるためのユニフォームであり、区別のために作られたのだ。その制服が学校から逸脱した理由は、単純に制服の箱が学校以外にもあっただけなのではないかと感じ、カルチャーの根付きに関して重要なこと考えた。
■デザインの良し悪しと内向き
ここでぼくのカワイイデザインに対しての解釈が変わる。制服を着て渋谷に繰り出すコギャルは、チームを大切にする特性があった。自分らのカワイイを追い求め、試行錯誤するなかで制服がカワイイというのは、コギャルとして生きるための自信の根底になると考えた。
究極に内向きなカワイイを追求していた彼女らにとって制服がカワイくてファンが増えることがカワイイ制服を着る理由なのではなくて、カワイイ制服を着ている私たちがイケていると自信付ける意味合いがあった。
そう、ブランディングだったのだ。そしてその思考こそが、常に新しきを生み出し憧れられるカルチャーを創り出したのではないだろうか。優れたビジュアルは内側に向いている。これが最後のピースとしてバッチリハマったのだ。
ただ、これから書く「サッカークラブがクールでなければならない理由」は、決して「外側」に向けたものではなく、「内側」に与える影響が遥かに重要であり、例えば市場規範的な視点、つまり「かっこいいからグッズが売れる」「かっこいいからお金が生める」「かっこいいから人を呼べる」という類のものは、あくまでもその「副産物」であると、私は考えている。
「芸術としてのサッカー論」の著者である河内一馬さんは、自身の作品の中でこのように記している。フットボールのビジュアルがかっこよくなければならない理由は、コギャルがカワイイものを突き詰めた理由に似て非なるものを感じるのは私だけだろうか。
カワイイ制服が、コギャルがメディアに取り上げられたのは、あくまで「副産物」なのだ。
■日本のフットボールカルチャーよ
ここまで思考してきて、単に海外のカッコイイフットボールカルチャーの真似をすることがいかに馬鹿げているかがわかってきた。
ぼくらがフットボールをカルチャーとして根付かせるためにしなければいけないことは、コギャルのマインドを持つことだと思う。それは究極に内的思考で自分らのカッコイイを突き詰める姿勢である。
日本という島国から大陸で盛んに行われているフットボールに影響を与えることは到底険しい道のりである。どうしたって貧困街で育ち生きるためにフットボールを行ってきたヤツらとは環境が違いすぎるし、彼らと同じマインドで戦うことはできない。
ピッチ外のカルチャーも同じで、イングランドのフーリガンのスタイルを真似しても面白いものはココでは生まれない。どうしたってそれを追い抜くことはできないのだから。
となると、ぼくたちは自らに目を向けなくてはいけない。その先に「Jリーグ」があることはもう火を見るより明らかである。Jリーグを愛し、指摘し、カルチャーを根付かせなければいけない。
ココ日本でもフットボールカルチャーを楽しむ風潮がある。今年の初めにユニフォームを着て街でスナップを撮るコミュニティが誕生した。いままでも似たようなコミュニティはあったが、特筆すべきは衣装が「Jリーグのユニフォーム」であることだ。
コギャルカルチャーでは、渋谷の街がカルチャーの受け皿であった。時代は変わり、受け皿の多様化は進む。それはオフラインからオンラインへの移行と共存を意味する。
当然ユニフォームを着ることだけが、フットボールカルチャーではない。音楽を楽しむことも、何気ない会話も、ファッションも、カルチャーは普通で当たり前なのだ。
◾️場は用意された。
Jリーグが開幕して、間も無く30年。スターがひしめきブームが起こった。みなが熱狂したブームだった。されど、ブームだった。
日本代表は世界と戦えるようになった。世界で16位になった。
ここから先、日本のフットボールはカルチャーにならなければならない。それは決してピッチの中だけで起こるわけじゃない。フットボールがあってもいい場所はいま、どれだけあるのだろうか。
コギャルカルチャーが日本に残したものは、自分がイケていると思えばカルチャーを作れることだ。そこには、ちょっぴりの勇気と、自信と、生意気さが必要だ。その先に日常がある。
カルチャーを創るのは、いったい誰なのだろうか。
コギャルはそれを、「ウチら」と表現した。
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ーJsnapは、日本のサッカーカルチャーを考えます。
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