文化とは、生活か。生きるためにユニフォームを。
海外のスタジアムでは、意外とユニフォームが着られていなかったりもする。
それをサッカー文化のあれこれと日本人が決めるのはあまりにも表面的だと思ってしまうが。
街でユニフォームを着ることは、あくまでサッカー文化が成熟した結果のひとつに思える。ユニフォームは街で着るものではないという声が多くあるが、そういう話をしたいわけではない。別にグッズでも言葉でもなんでもいいと思う。
きのうの記事のあと、はやくも動き出した。寒い季節はまだ終わっていないが。この動きだって文化のひとつなのだ。
先日のリベルタドーレスの決勝前、リーベル・プレートのサポーターがボカ・ジュニオルスのチームバスに石を投げ込んだ。
とんでもないことが起こってしまったことはわかるが、あまりにも日本では体感したことのない感情が駆け巡った。はじめてサッカーで死を意識したかもしれない。
ふと、2年前にいったブラジルの記憶が蘇る。
◾️生きるためのユニフォーム
はじめて降り立ったブラジルでは、治安が懸念されていた。今考えればそんなに危ないこともないんだろうけれども、仕方がなくビクビクしていた。
日が経ち、ブラジルに滞在しているうちにサッカーが彼らブラジル人にとってなんなのかがわかってくる気がした。「防御」なのだ。あくまでひとつとしてだが、
ひとつのクラブを愛するということが、その誇りだったり、自身だったり生活の糧となったりする。しかし、治安はしばしばその生活を破壊する。
一緒にブラジルに行った友達に熱狂的なコリンチャンスファンがいる。そいつはいつもコリンチャンスサポーターにウケるスラングを使ってコミュニケーションをとっていた。
日本語で発行されているガイドには注意されるような、場所、状況でもなんだか仲良くなっていたりした。なんてブラジルはいい国なんだろうかと感じた。
考えてみると、ぼくらは自ずと身を守っていた可能性がある。
国はとなりだが、同じ南米でサッカーの汚職やサポーター同士の争いを見ていると本当にぼくらが感じた楽しい雰囲気に疑問が生じる。マナカナンスタジアムで黄色のブレスレッドをくれたあのおじいちゃんは元気だろうか。
いままで街とユニフォームについて考えてきた。帰属意識というはっきり説明できない言葉を使ってきた。そこには誇りだったり、生活の源だったりとが影響しているとも論じた。
しかし、リベルタドーレスの暴動の後、実は自分の身を守るためにユニフォームを着るという「防御」があるのかなと感じるようになった。
想像できないくらいいサッカーに依存しているひとはいっぱいいる。生活のために、生きるために。
なんてことを考えていると、今自分が考えているかっこいい魅せ方なんてものは本当に幸せだなと思うのだ。そして日本にいたら絶対に感じることのできない‘‘なにか’’も知らないといけない。
世界には、街でユニフォームを着るほどサッカー文化が成熟している国がある。
デザインがかっこいいから、着るのだ。
服の機能性が気候と相性がいいから、着るのだ。
自分とは何かを提示するために、着るのだ。
今日を生きるために、着るのだ。
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日本サッカーはどうなんでしょうか。ある意味エンタメ的な扱いであるサッカーは幸せなものだと思います。
だからといって治安が悪いことがいいことでは決してなく、そういうひとらが創るサッカーと戦わなければいけないことを理解しなければ、と。
そしてそのサッカーを真似することが果たして日本なのかと。結局日本を理解しないといけないんだなと思います。
なんてクサイ文章を書きなぐっていきたい次第です。どすこい。
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