余白が余韻を生む珠玉の短編映画『兎姉妹』レビュー(ネタバレなし)
外は雨が止んだばかりか乾ききっていない山道の道路。
二人の美しくもどこか訳ありげな複雑な友とれる、メランコリックな表情のバニーガールが立っている。これ実はこのアートワークを見た瞬間の2ヶ月ほど前から
とXでポストしてるんだけどその予感通り、本作はまさにアートワークそのままの世界観の映像作品である。
上映時間は21分。短編ながらも、もはや短編だの長編だのそういうカテゴライズを完全にとっぱらった正に余白が余韻を生む21分の珠玉の名作と断定して良い。それぐらい鑑賞者の心の中にはきっと二羽の兎が宿るだろう。「温泉コンパニオンとしての初日、旅館で既にスタンバッてた一人のバニーガールがまさかの姉だった!」という衝撃展開から始まる。この姉妹の会話から浮き彫りになってくる複雑な家族事情。上映時間20分台という枠を超え大切な家族のあり方を教えてくれる..という話だが「え、まさか、そういう事になったん?」な展開に驚愕。舞台挨拶で興味深かったのが「シリアスさと色もの感との境界線をどこに引くか」で 遠藤大介監督と脚本家であり、主演(写真右)の高尾美有 さんとでバチバチに意見を戦わせたというエピソードを教えてくれた。
フェミニンの象徴であるバニーガールが実は親に捨てられた兎の姉の物語でもある本作はその成果あって絶妙な塩梅だった。
「うさぎ」といえば劇団テンアンツの最近リリースした映画『うさぎのおやこ』が浮かぶし、「姉妹」といえばやはりこれまたテンアンツが10年ほど前に公開した『姉妹』という短編は浮かぶのも偶然ではないだろう、というのもいずれも毒親に翻弄されて行き場を失ってしまった娘の心象風景が主軸になっているからだ。いずれの三作とも家族の本当のあり方とは何か?がベースになっっているのは確かである。そう考えれば「うさぎ」というのは何かそういう家族だとか孤独だとか悲しみだとかそういう要素を呼び込むメタファーになりやすいのだろうか?話は脱線するが福岡県民なら誰しも知っているであろうマシュマロで白餡を包んだ銘菓に「雪うさぎ」というものがありこのCMで「♪雪うさぎ、雪うさぎ、あなたのお目目はなぜ赤い?母さん夢見て泣いたから」という涙なしには聞けない悲しいテーマ曲があってそれも思い出したりして。
本作観て大収穫だったのは最初にアートワーク見た瞬間下北沢のスズナリ辺りの演劇が醸し出すサブカル要素を感じてて、そういう空気を常日頃から欲っしてる私にとって大当たりだった。家族がテーマだったりこういう終わり方だったり演劇アンティークスとか好きな人はきっとハマる、ソースは私である笑。
あとこれは偶然だけど東京で活躍されてるNanaさんという顔見知りの女優さんが『兎姉妹』のフライヤーデザインされた方と舞台で共演されてたってのお聞きしてなんとなく舞台演劇のフライヤーを彷彿とした所在がわかって凄く納得した。
そして本作は実は2回見てて、1回目はどちらかというと姉目線で鑑賞したが2回目は妹目線の心象風景にフォーカス。あの狂気乱舞な宴会シーンがどこか人間の性(さが)の物哀しさを感じるなどより深く世界に浸れたし、昨日唐突に思えたあの衝撃の結末に至る過程が分かった。ここでちょっと話がフェティシズム方向に走るが、今回のテーマはバニーガールという事で「網タイツ」論を展開したい。そう、「バニーガール」といえば網タイツを着用する事が半ば暗黙の了解になっているものだが、これは全体的に黒い衣装なので黒っぽくするということからかもしれないが誰もが最初に気づくかもしれないこととしてポスターヴィジュアルにおいてバニー姉・佐々木れないこととしてポスターヴィジュアルにおいて姉・燈は網タイツを着用していないのだ。でも前半部分では燈は網タイツを着用していることが以下の写真から伺える。これが何を意味しているのか?もちろんネタバレなし記事なので敢えてそこはハッキリと明言しないが、ある種これが二人の姉妹が各々、温泉コンパニオンという職に徹する「バニー」であるか、はたまた親に翻弄された孤独な「兎」であるかを区分するボーダーラインとなっていることを示唆していると考えている。このうさぎかバニーじゃという相違がキッカケとなって兎姉妹は事実上の崩壊を迎える。それがあの衝撃の結末を迎えるのではなかろうか。だが、本作を鑑賞して一週間近く過ぎようとしているがそれ以来この哀しい2羽の兎がまだ私の心の中にいる。舞台挨拶でも言及していたが、本作では敢えて台詞や演出等を削ったりして敢えてこそ余白を残したと言う。でもだからこそ私の中に心のパースペクティブが生まれ、今なお余韻を生んでいるのだ。
余白が余韻を生む珠玉作よ、また会う日まで。
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