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"描けない人"になったわたしが、恥をさらして今日も描く
絵を描くことへのコンプレックスがある。
という今回の書き出し。
こんにちは、フリーランスでイラストやデザインのお仕事をやってます、nenneです。
今回は自分の中にある描くことのコンプレックスについて、ゆるりと綴っていきます。いつもに増して独り言みたいな、心の中を整理するような、取り止めもないnoteです。
ー "描ける人"から"描けない人"へ
子供の頃から絵を描くのが好きだったけど、自由帳に鉛筆で描くだけの、落書きの範疇から出ないことを楽しく続けている子供だった。
小学校の時も、中学高校と、とびきり絵が上手い友人がいつもいた。でもその時は絵を描く人は周りに数人程度だったので、その中では自分はうまくはないかもしれないけど、学校全体で見たらわたしは"絵を描ける人"だった。というのは、絵を描く人あるあるな話。
そこが変わり始めたのが大学入試の時。
わたしは京都の美術大学に進学したのだが、入試のために高校2年から画塾に通い、デッサンを学び始めた。1枚描くのに数日かかる。手も遅く、さほど上手でもなかった。そもそも画塾に通い始めたのも遅く、おそらくこの程度だと実技では受かる見込みもなかったので、夏のAO入試に賭けていた。(今はAO入試という名称ではなく、"総合型選抜"に変わったようだ)
この時のAO入試は、授業形式の二日間で課題を仕上げ、最終日にプレゼンを行うというもの。
試験当日、わたしは愕然とする。教室にいた受験生3,40人程の中でわたしは一番に絵が下手くそだった。なのにプレゼン用に渡された四つ切り判の画用紙に平面表現でまとめないといけない。周りの圧倒的画力に、考えるまでもなく勝ち目がないのがわかって、とにかく恥ずかしくてほとんど手元を隠しながら1日目の試験を終えた。
大学から駅に向かう帰りのバスの中で、明日は行くのやめようかなと本気で思ったのを今も強烈に覚えている。そしてイヤホンを耳に突っ込んで、惨めな自分を励ますために、推しの曲を何度もリピートした。(ちなみに嵐のファイトソングという曲)
バスに揺られながら、どうせ落ちるなら開き直って描き切ってやろうという気持ちになってきた。誰も自分のことなんて知らない教室。下手と笑われてもどうせ次の日には誰も会わない人たちだ。どうせやってもやらなくても負けるのだから、好き放題やって負けてやる。ただで転んでやるかと思った。元来私は負けず嫌いの性分なのだ。
翌日、当時の自分にしてはかなり振り切った内容のプレゼンが出来上がった。画用紙にはお粗末な絵を画面一杯に絵の具で描いた。凄まじい画力で表現されたプレゼンが続く中、自分の番になって、伏せ気味だった紙を教授やスキルの高い受験生たちの前に広げた。子供の落書きみたいなそれに、思わずといった微笑みが教授陣から漏れていたのをわたしが見逃さなかったが、とっくに開き直っていたわたしは、自分のプレゼンが一番面白いというつもりで発表した。実際、ここまでのプレゼンを見て、絵のクオリティはダントツビリだったが、プレゼン内容は悪くないと思っていた。なんならいいでしょ?の気持ち。
結果、ダントツビリの絵でわたしはAO入試に合格した。1日目の帰り道、ベコベコに打ちのめされた心を奮い立たせた自分を褒めてあげたい。そして推しの曲に心から感謝した。
大学に入ってからも、わたしはクラスで絵が下手な人だった。
わたしはデザイン科の中の、多種多様なアート領域を学ぶコースを専攻していた。描くこと自体は変わらず好きだったが、そこの土俵ではもはや戦意喪失である。デザイン科の中にイラストコースがあるのだが、そこを専攻しなくったってみんな化け物並みに絵が上手いのだ。
この場所で勝てるのは絵ではない、とわたしは早々に描くことをやめて、大学時代の4年間はほぼ立体表現に打ち込んでいた。今まで手のひらに収まる程度の落書きした生み出してこなかったわたしが、見上げるほどの作品作りに取り組めたこの期間は刺激的で楽しすぎた。化け物たちに挑める手段を自分が持っていたのも自信になっていった。
自然と描く頻度は減っていたが、スケッチブックの端にはいつも小さい生き物たちが生み出されていた。
ー"nenne"として描く
そこから時が飛んで11年。今。
わたしは絵を描いている。
描くことでお金をいただいたりもしている。(稼ぎとしては僅かながらも)
きっかけは5年前に子供が産まれて、がさっと描いた育児絵日記をインスタに投稿し始めたこと。ちょうどこの時期育児イラストのアカウントがどんどん増えていて、そこから書籍化も多かった。流行りに乗ったような形。
しかしわたしは描いていることをどうしても大学時代の友人には知られたくなかった。わたしはよく知っている。自分が友人たちの中で一番絵が下手くそなのを。友人としてはみんな対等なのに、イラストでは到底対等に並べない。プライド、恥ずかしさ、見栄、色々。
絶対に自分とバレないように、本名と一ミリも掠らないようなアカウント名を考える。0歳の我が子をトントンと寝かしつけながら、"nenne"という名前に決めた。当時はまさかこの名前が開業時の屋号になるとは夢にも思っていなかったので、人生とは思いもよらない方へ転がっていく。
4年ほどリアルの友人にはバレずにアカウントを運用し、保活と就活のバランスの悪さから開業を決意し、nenneとしてデザインやイラストの仕事をするようになった。
いつかもっと稼げるようになったら隠さず仕事ができるかな、もっと大きな仕事ができるようになったら、いつか胸を張って自分の作ったものを見せれるようになったら。いつか。
ー "いつか"がやってきた
そんな、いつか、が最近急に訪れた。
発端は昨年文学フリマに出店したこと。文学フリマは大学時代の友人と出店することを決め、わたしはnenneでの活動の一環として本を作ることにしたため、彼女にはそのタイミングで長らく隠していたnenneの存在を明かすことになった。彼女への告白の抵抗感が比較的薄かったのは、彼女自身のキャラクターによるものも大きかったが、もう一つの要因は彼女が絵を描かない人だったから、だと思う。わたしとは違う分野のクリエイティブ職で活躍している彼女に、描いたものを見られる気恥ずかしさは猛烈にあったが、それだけであった。
しかしお互いのSNSアカウントで文フリの宣伝をし始めると、どうしたって逃げきれない。芋蔓式に共通の友人たちにnenneがバレていき、もうnenneと横文字で気の抜けた名前を名乗っているのも恥ずかしい。見ないで〜〜〜〜の気持ち。
でもわたしはわかっていたのです。本を買ってくれたり、アカウントをフォローしてくれたり、イラストを見て刺激をもらったと言ってくれたり、わたしの拙い活動を見守って応援してくれる友人たちばかりなのです。
わかっていた。けど。こういう機会がなければ、やっぱりまだ自分からはオープンにできなかったなと思う。
わたしは大学卒業後、ものづくり関係の企業のデザイン部署に就職した。そこでは接客、営業、事務仕事もデザイン業務以上に時間を割く必要があり、数少ないデザイン部の同僚たちと社内デザインをこなしながら、同級生たちがデザイン事務所などでがっつり扱かれているのを横目にじわじわと圧倒的な差が開いていくのを感じていた。
イラストだけでなくデザインも、両方にわたしは引け目を感じているのだと思う。
ただ仕事を受ける時は、その劣等感は脇において、時には見ないようにして、今できる最大限のパフォーマンスを提供していることには間違いない。頼んでくださる方々に真摯に応えていくこと。そこだけは引け目を感じたくない。
ー 恥を捨てること
それでもどうしたって太刀打ちできない人たちが周りにたくさんいる。nenneの活動を見ないで…!と思ってしまうのはそういうとこ。
ちなみにこれを読んでくれてる友人たちがいたら、見ないでほしいと思ってしまう恥ずかしさはあるけど、見るなということではないと伝えたい。(どっちだ)
見ないでほしいと思う友人たちがいることはわたしにとって不幸ではない。ばちばちにクリエイティブしてる友人たちからとんでもない刺激をもらっているし、いつか刺激を与えられるような活動をしたいとも思う。
いっそもう見てくれ。恥を捨てて、今わたしはまた開き直るしかない気持ちでいる。いつか大きい仕事ができたら、いつかたくさん稼げるようになったら、の"いつか"なんていつ訪れるかわからないし、"大きい仕事"や"たくさん稼げる額"の判断基準なんてない。どうしたって、今やれることをやり続けるしかないのだから。
コンプレックスを抱えて、今もこれを書き綴ってる。
あーー読まれるの恥ずかしい。恥ずかしいけど見てくれ。いや読まないでくれ。いや読んでくれ。
そんな葛藤と共にこれからも恥を連ねていく。
いつかこのコンプレックスを超える日が来ることを願って。
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