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「無意識Ⅱー泉の章ー」#3 オルゴール


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1992.11.19 thu 5:00pm

時々、頭の中で小さな音がする。

小さな、小さな一本の糸のような
すぐに消えてしまう細い光のような、透き通った儚い音だ。

捕まえる暇もないぐらいにスーッと聞こえなくなって
また不意に滑り込んでくるその音を、私は空から降ってくる天然のBGMだと思って聞き流している。聞こえて来た時だけ、その時だけ楽しもうと。


だいたい、仮にそれを記憶に留めておこうと考えたとして、結構難しい場合が多い。タイミングが意地悪すぎる。
例えば夜眠りにつく直前とか(眠さに勝てない。起きたらすっかり忘れてる)、
学校のテストの真っ最中とか、混んでる電車でつり革にしがみ付いてる時とか。



「日曜日の昼間は結構ウチの店混むんだよ。手伝ってくれる人探してたんだ」

「お財布の件でお世話になって、それ以来、お店で未智さんとお話することが多くて、働いてみない?って勧められたんですけど」

「そうだよね。あの時から急接近だったもんね『フレンドシップ』と」

「本当にあの時はありがとうございました」

「いえいえ。 実はあのお財布、僕が見つけたんだよ」

「そうなんですか!お店のどの辺で…?」

「貴石駅の近く」

「駅?」

「そう。駅のすぐ横の踏切のあたりかな」

確かに通ってるとこだ。だけど

「お店じゃなく、駅ですか」

「そう。駅。僕が拾って、交番に届けるべきところを、めんどくさいんで一旦お店に持って来ちゃったんだよね。それで未智ちゃんや東野くんに「交番行け」と説教されてるところに、持ち主である北里さんが現れてくれたってわけ」

あの時、得意げに笑ってた理由ってこれか。
まさかフレンドシップの店長だとは思わなかったけど。

「ちょっと奇跡的ですね」

「だろ?しかもそれがきっかけで、アルバイトまで始めちゃうなんて北里さん、この店と縁が深いかも知れないね」

奇跡的とかうかつに口にしたのをちょっと後悔するぐらい、店長の水元さんはお調子者で多少うっさん臭い感じもした。でも、単に大人にしては無邪気なだけかも知れない。

ともあれ、こんなゆるい会話がアルバイトの採用面接。

「ところで、まあ日曜日だから学校は休みだろうけどアルバイトの許可は?高3って聞いたけど、進路はもう決まったの?」

やっと面接っぽいこと聞いて来た。

「許可は、大丈夫です。つい先日短大の推薦が決まって、受験もひと段落なので」

「そうか。優秀なんだね」

「そうでもないです。本当は東京の大学受けたかったけど、楽な方を選んだだけですから」

「まあでも、そのおかげでフレンドシップの日曜スタッフは安定しそうだし。大歓迎だよ。今週でも次の週でも、なるべく早く加わってくれたら助かる」

「今度の日曜から大丈夫です」

「OK!じゃあ決まりだ。他に何か聞きたいことはある?」


その時、また頭のあの中を小さな音量のメロディーが通り過ぎて行った。


「あの」

「何?」

「仕事とは直接関係ないんですけど、ここの一階にピアノが置いてありますよね」

「うん。あれねウチの目玉商品」

「え?売ってるんですか」

「あー、ピアノそのものは売らないかな。そこから出る音かな」

ん?どゆこと?

「出る音?」

「そう。あ、もしかして北里さんピアノ弾けたりする?」

「ええ、まあ。最近は弾いてないですけど」

「あれ、仕事の合間とか終わった後とか、良かったら自由に弾いていいよ」


短大の推薦入学が決まって、日曜日のアルバイトが決まって
ついでにフレンドシップの一階にあるピアノを弾く許可までもらって

トントントントン、と音がするぐらい順調に、ここから半年ぐらいの生活パターンが設定された。

半年ぐらい

その後は?

その後は、短大に通う日々が始まって、通学する電車の往復時間が倍ぐらいになる。たぶん、真面目に講義も受けて、例によって電車で音楽を聴きながら景色を眺めて、夏になって秋になって冬になって

何を目指して生きてるかな。


ただ、漠然と浮かぶのは何故かあのピアノの前に当たり前のように座る私の姿だ。

自分の家でもない、居ることに何の義務もないその場所に行き
大きなガラス窓の向こうの風景を見ながら、好き勝手にピアノを鳴らしている。そのイメージだけはっきりしているのは何故だろう。


1992.12.17 thu  7:00pm

フレンドシップで日曜日のアルバイトを始めてから1ヶ月が過ぎようとしている。

仕事にもだいぶ慣れて、未智さんとはますます仲良くなって、「感じワルオくん」こと東野さんとは相変わらずあまり仲良くなれず、でも最初ほど険悪な感じでもなく、休憩時間が一緒だったりすると自販機から飲み物を買って来てくれたりすることもある。(その代わり、お給料日の直前だったりすると「100円貸して」とか言って来るダメな先輩でもあり)


短大の入学は決まっているけど、東京の大学に行くこともまだ諦めずに引きずっていた。

本来、推薦で決まった以上はちゃんと卒業しないと、後々そこの短大からの推薦が途絶えてしまったりすることもあるらしい。つまり、同じ高校の後輩に迷惑がかかる。それでもやっぱり、来年受験し直してもし合格したら、中退して行きたくなるのは間違いないだろうな。


家族には「最後の定期テストもあるし、短大に行ってからの内容にも興味があるから、しばらくは帰りに図書館に寄って勉強する」と伝えてみた。日曜日のアルバイトのことは、一応正直に言った上で。

本当は、駅の近くの「ふたば」というレストランの席を使わせてもらっている。レストランのオーナーの息子が高校のクラスメイトだから、ジュース一杯で好きなだけ居られるのが嬉しい。


ただ、不思議なことに私がそこにいると「ふたば」が異常に混み始める。平日にそこまで混むことは、以前はなかったそうだ。

「ごめんね、なんか混み始めたから出るね」
「いや、こちらこそごめん。ウチは何時間でも居てもらって構わないんだけど、北里がお店に来てくれると、なんかお客増えるんだよ」

お店を手伝っているクラスメイトの樹(読み方:みき)(だけど男子)とそんな会話を交わしてお店を後にすることも増えて来た。


家に帰るにはちょっとまだ物足りないな、と思う時
斜め向かいの「チカチカ」が目に入る。そして結局、私は「フレンドシップ」に潜り込んで、アルバイトのない日でも一階の休憩スペースのテーブルをひとつ占領するのが日課になろうとしている。


勉強仲間は、未智さんの妹の雪さんだ。
日曜日にいつも一緒に働いていて、仕事を教えてくれたのも彼女。
そして何気に「浪人生」という共通点もあるし。

「でも、わたしの場合はノーマル浪人だからね!泉ちゃんは仮面浪人ってやつでしょ!」

自信満々で言うけど、姉の未智さんに言わせれば「丸一年勉強ひとつせず遊んでて、二年目の秋ごろ思い出したように大学目指すことのどこがノーマルなのよ」なのだそうです。雪さん。


例のピアノは、まだ弾いていなかった。

何となく、音を出す勇気が湧かずにタイミングを失って、そのまま指一本触れていない。


ただそれと相反するように、頭の中を流れる音が前よりボリュームを上げて来たような気がする。断片的だったメロディーが少しつながって、繰り返すようになった。

小さな、小さな
一本の糸のような細い光のような音だったはずなのに

それは少しずつ、クリアになっていく。


糸というより、光というより
もう少し、私が実際に聞いたことのある何かで表現できそうな音色。


オルゴールだ。


それに気づいた途端、その音はさっきよりもはっきりと聞こえて来た気がした。

私は初めて、その音を「捕まえて」みたいと思った。


冬休みが始まる直前の夜。二階はいつにも増して混んでいて、未智さんも、東野さんも、夏井さんも、雪さんも、何なら店長まで入っているみたいだった。

お客さんの行き来が少し落ち着くのを何時間が待って、こっそりピアノの前に座って鍵盤の蓋を開けてみる。新品なのか、鍵盤の独特の匂いがした。


ちょっと迷ってから、右手でメロディーを拾ってみる。
まだ、お店のBGM も流れていたから、誰もその音には気付かない。そのぐらい小さな音で。

大きなガラス窓の外は、冷たそうな雨が降っていた。
もうすぐ雪に変わるんじゃないかしらと、空から落ちて来る粒を目で追いながら
オルゴールの音が指先でピアノの音に次々と変換されて、それを耳が必死に記憶している。

透明な雨が、白い雪に変わるのと同時に、圧縮されていた音が膨らんで
気がつけば、私の周りを包み込んでいた。


それを追いかけるように、ピアノのボリュームはいつの間にか大きくなっていたのだろう。 

閉店間際に飛び込んできた数人のお客が、螺旋階段を昇りながら何回か不思議そうにこっちを振り返っていたような気がする。


それから、たぶんその日は一度も中に入って来ていない人影が、ガラスの外で動いていた。


その人影は、少し前から何かを探すように数回視界を横切った後、何かを大事そうに地面から拾い上げたように見えた。
(ピアノを弾きながらどこまで正確に見えていたかは定かじゃないけど)

ただ、すぐにその場を立ち去らずに背中を向けたまま、空を見上げて動かずにいたのは瞬間的に目に飛び込んできた。こちら側の音に耳を傾けているような背中と、ツンツンハリネズミのような頭。


数分後、鍵盤から指を離すと、吹き抜け越しの二階からフレンドシップのみんなが驚いた表情でこっちを見下ろしていた。

いつの間にか、ピアノの音が建物中に響き渡っていたらしい。


やばい。ええと、何から説明しよう。
頭でオルゴールが鳴って、店長が「ここのピアノいつでも弾いていいよ」って言ったから…。いや、最初はオルゴールほどの音でもなく、もっと頼りない…

そんな細かいこと説明する時間はなさそうだ。何よりめんどくさい。


ええと、まあいいや。
とりあえず、ごまかしの笑顔。

「このピアノ、鳴るんですね」

何だその「おもちゃのピアノかと思ってました」発言。
これじゃ何て答えを返したらいいか二階の皆さんも困るじゃん。

この、トントントンと行くどころか初めからつまづいた会話に、東野さんがいきなり結論までギュイーンと飛び越えるような質問を投げて来た。


「それ、何て歌?」


歌?
ピアノ弾いただけで誰も歌ってないのに「何て曲」じゃなく
「何て歌」?

見つかりそうにない答えを探すように、私は無意識にガラスの大窓に目をやった。雨は、完全に雪に変わっている。
さっきの人影は、もう見えなくなっていた。

その一瞬で、季節や時間が動くことの意味を少し感じた気がした。


「未来の歌」


曲じゃなくて、「歌」だ。

何でか分からないけど、後から分かっていくのもいいかなと思った。


分からないこと、まだ知らされていないこと
それを紐解きたくて手を伸ばすけれど、まだ届かないのが、きっと未来だ。

分かった時、知らされた時、それらは今になる。

そうしていつか振り返って味わう時には、思い出になっていくんだ。


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