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長田悠幸・町田一八 - SHIORI EXPERIENCE ジミなわたしとヘンなおじさん

SHIORI EXPERIENCE ジミなわたしとヘンなおじさん」(以下SE)がSNSの広告にしばしば出てきて気になってしまった。「SE」について調べたら連載開始は2013年、単行本は2023年7月時点で20巻まで出ているというから長期連載というか人気のある作品だった。

ジミ・ヘンドリックスの亡霊が現代に生きる主人公、高校の英語教員として働いている紫織のもとにやって来る。紫織のうなじに突然出来たインプットにヘンドリックスがシールドを繋ぎこむことで二人が一体化する。その状態で紫織がギターを弾くとそれはヘンドリックスそのものだった。乱暴に言うとイタコのようなものである。そしてヘンドリックスは紫織に、一度でもその体験をしたものは「27歳までに伝説を作らないと死ぬ」ことを伝える。ストーリはそこから始まっていく。

「27歳で死ぬ」と言うのは高名なアーティストが27歳で死ぬことが重なった事実から、いくらかのオカルト的な要素と合わせてロック・ファンに今でも伝わっている「27 Club」のこと。そして作中にある「十字路でギターを弾いて悪魔を呼び、その悪魔に魂を売ることと引き換えに超人的なギターテクニックを手に入れる」という話はロバート・ジョンソン(彼も27歳で死んでいる)のエピソードが元になった「クロスロード伝説」と呼ばれているもの。前者は信じがたい偶然が重なった事実として起こったこと、後者はブルーズという音楽にまつわるフォークロア。性質は全く違うものではあるが、どちらもロックあるいは音楽についての、どこかロマンティックな香りをまとった伝説として語り継がれているものだ。

ストーリーが進むと紫織は生徒とバンドを組むことになる。バンドにいるのは周りと反りが合わずになんとなく行き場をなくしていたり、スクールカーストで下位に位置づけられてしまってたり、周囲の期待に応えるために自分のやりたいことを押し殺しているというような生徒たち。成功したロック・ミュージシャンの若い頃の話がそのまま漫画になっているような感じだ。そのバンドは、ヘンドリックスからの紫織への助言、紫織を始めとしたメンバーの必死の努力もあって力強く成長していく。「SE」で私が一番惹かれるのはその部分だ。

その過程で「バンドあるある」的なエピソードが盛り込まれ、そこに「ジャンプ」的なスポ根や格闘漫画的な要素が絡むことに気がついた。バンドコンテストの描き方なんて完全に「ジャンプ」作品だ。さらに出てくるアーティスト、そのアーティストについて作中で披露されるトリビアの内容がいちいち「そうそう、そうなんだよね」と言いたくなるもので、著者が自分と同じ40代であることはすぐにわかった。

私は実在する(した)アーティストやイベントがフィクションの中に混ざるとどうしても興ざめしてしまい、これまでも人気だった音楽系漫画にもまったくハマらなかった。「SE」もそうなるかなと思っていたらすっかりハマってしまって、単行本は電子版で全20巻を購入した。ハマった一因は著者のテンションが高く、音楽から受けた感動を漫画で必死に表現していることだ。

高校生バンドのストーリーの中で、楽しくやっているだけでは絶対にたどり着けない場所があること、楽しいだけの先にある場所に辿り着くには先述したようなスポ根的な血の滲むような、側から見ると非効率的で理不尽な練習を必死に耐え、こなしていかなくてはならないことも描かれている。物語の描き方としては使い古されているといえばそうだろうし、ここの書き方が良くないと音楽の素晴らしさは苦痛に耐えなくては得られないと思われて「SE」を読んで音楽はつまらないと思う人が出てきてしまう。読んでいて「そうなりそうで嫌だな」と思っていたが、「SE」はその苦労を乗り越えてたどり着いた地平を著者がハイテンションで素晴らしく感動的なものとして描くことによって乗り切ってしまう(そうした点が見事に描かれている4巻から15巻が特に好き)。これは著者の描きたい世界を高いテンションと技術で描くことで成せることだ。ライブの演奏シーンに1エピソードの大半を使い、その場面をセリフを使わずに描き切るというのは相当なものではないだろうか。ストーリーの中でもやりたいことを音楽で表現するためにテクニックは絶対に必要であるとする話が出てくるが、それは作者の実体験からくる信念だったりするのだろう。

リアリズムを突きつけながらも読者に夢を見させてくれるようなストーリーが楽しい一方で、作中に出てくるアーティースト(ジミ・ヘンドリックス、カート・コバーン、ジム・モリソン、ジャニス・ジョプリン、ブライアン・ジョーンズ)の存在がロック好きの妄想を具現化して読者を刺激する。

「もし現代に彼らが生きていたとしたら、どのようなな音楽を作っただろうか」と考えることは楽しい。おそらくどのアーティストでもまずは現代のテクノロジーを覚えるところから始めめるだろう。ヘンドリックスはエイフェックス・ツインやフライング・ロータスのようなどこか世間離れしたような音楽、または力強い意志を持ちながら世知辛い現世を抜け出そうとしているデトロイト・テクノに感動しているかもしれない。そしてシンセサイザーやサンプラーを駆使してドローンやスピリチュアル・ジャズ、ミニマルテクノを作りそうな気がする。作中のヘンドリックスは「The 27 Club」をまとめる人物となっているが、実際にはエクスペリエンスもバンド・オブ・ジプシーズもまとめきれずに短命に終わらせているから、バンドよりも一人で音楽が作れることに喜ぶかもしれない。

コバーンとジョーンズについても、生前にバンド形態で音楽を作ることに疑問や限界を感じていたり、人間関係で嫌な思いをしている人たちだからバンドという発想からは離れた形で音楽を作っているのではないか。コバーンはジェームス・ブレイク辺りの新しい形のシンガーソングライターに近い音楽を作っているかもしれないし、あるいは近い世代のエリオット・スミスのようなサウンドを作っているようにも思える。

ジョーンズはロンドンでグローバル・ベース・ミュージックをはじめとしてエレクトロニクスと伝統音楽をミックスした楽曲をリリースし続けている「On The Corner」のようなレーベルに接近するかもしれない…と思った後に読み返してみると作中でもEDMにシタールやマリンバを組み合わせる描写があった。

モリソンがヒップホップ/ラップをやっているというのも、初めて読んだときはどうなのだろうと思っていたが、思えば英国にはザ・ストリーツという詩人がいる。あながちおかしな話でもない。ところで詩人といえばアークティック・モンキーズも歌詞が評価されているバンドであるが、モリソンには刺さらなかったのだろうか?そしてレディオヘッドについてどう思うだろうか?

このように大変に楽しく妄想ができる作品ではあるが、読み込んでいくとどうしても気になる点も見つかる。一番気になってしまうのは、27歳で死んだアーティストにまつわるドラッグや病気、そして死に至る部分がはっきりと描かれておらず「27歳で死んだ」ことがぼんやりとロマンティックに描かれている点だ。これから描かれる構想があるのかもしれないが、そもそも彼らは自分たちが「神」として見られるような偶像崇拝に苦しんでいた部分もあったのではないだろうかと思うと、彼らの死因を作中で明確にせずぼやかしたり、少しでも美化することは違和感を覚える。

伝説のアーティストが集まったバンド「The 27 Club」の音楽があまりカッコよくなさそうに思えてしまうのは問題ではないだろうか。メンバーが揃ったステージでボブ・ディラン「Like a rolling stone」をプレイする描写があるが、それを「もうひとつの"We are the world"」と表現しているのはいささか白けてしまったし、コバーンが書いたとしている「新曲」もカッコいいものになっているとは思えない。この点を楽しめないのは私の感性の問題なのだろうか?

「SE」は現在も連載が続いている。先に述べた点に加えて16巻辺りから話が膨らみすぎているようなところも不安だが、なんとか素晴らしいエンディングを迎えるように書ききってほしい。私は音楽体験の素晴らしさを「SE」を通して存分に味わっているし「SE」を読むことでまた音楽の聞こえ方が変わってくるであろうから。そしてそういう人は私だけではないはずで、そうした人が一人でも増えてくれるといいなと思っている。

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