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グレート・ゲーム、ビゴーの戦争風刺画、中国分割の風刺画など



(承前)


先に前回の記事で扱ったブラーケンシークの風刺画を再掲しておきます。

「De Amsterdammer」1903年7月12日号の付録画か(??)
1903年10月13日づけ「中央新聞」掲載の絵とのこと


さて、ここで一旦話は横道にそれます。

以下に書く話は「クセがあって」、到底共感できないという方もいらっしゃるかと思います。
そういう方は申し訳ありませんが、下の方の「ビゴーの風刺画」のセクションまで飛ばしてください。

「グレート・ゲーム」


19世紀以来の英国とロシアの勢力圏争いを「グレート・ゲーム」などと呼びます。
Wikipedia にも「グレート・ゲーム」の項目が立っているのですが。
これが随分と「偏った」(?)内容なのです(2024年8月現在)。

なんというか、19世紀の英国の国家主義者が、その世界観を「当然のもののように」開陳したというような筆致の記事。
しかし、だからこそというべきか。「なるほど、当時の英国の思惑はこんなものだったかもしれない」と思わせるような迫力を感じるのも確かです。

下のカコミは、当該記事内の「グレートゲーム」の項、「第1期」→「極東」の部分にある記述を、比較的自由な形で引用してみたものです。

一方、極東ではイギリスの撒いた種が着実に成長していた。

イギリスの目的は、1880年頃に計画され始めたシベリア鉄道が完成を迎える20世紀までに、この鉄道が軍事的空白地帯である満洲と朝鮮に流し込むであろう大量の兵士と軍需物資を、日本が撃退できるだけの戦力を準備させることにあった。

イギリスが彼らに協力することで、その方向をロシアとの対決に誘導するのは簡単なことだった。

イギリスにとって幸いだったのは、日本人が欧州諸国から最良の相手を選んで学ぶ賢明さを有していたことで(……)多くの点で欧州の中で後進的地位にあったロシアから日本人が積極的になにかを学びたいと望むことはなく、ロシアが日本に与えられる餌は何もなかった。

日本はイギリスが栄光ある孤立を放棄してまで締結した日英同盟によって、国を挙げての悲願だった“列強”の座を確立した。

……等々。

要するに日露戦争は英露の「グレート・ゲーム」の大局的視野からすれば、英国が日本を手駒としてロシアにぶつけた「代理戦争」だったという見方です。

(米ソの「冷戦構造」というのがかつてありましたが。その前には、似たような感じで英露の「グレート・ゲーム構造」があったという風に考えると、オッサン世代の人とかにはピンと来やすいかも。)

* * * * *

ここで急に話は飛びますが。

今日の欧州に関して、次のような誰かの雑感を読んだ記憶があります。

人口や土地の広さで言えば、もちろん今では、ロシアが欧州第一の大国である。
しかし、大方のヨーロッパ諸国にとって、ロシアを自分たちヨーロッパ文明の「第一人者」として仰ぎ、主導権を握られることには強い抵抗がある。

なので、彼らはロシアをことさら「半ば欧州でない国」のように扱ったり、その「権威主義的」な政治体制を槍玉にあげたりするばかりで、ロシアと親しくしたり、ロシアが自分たちと価値観を分かち合える社会になるよう協力したりすることが少ない。

19世紀以来の「グレート・ゲーム」の因縁がある英国は、とりわけそうである。

……というのです。

さて。上のような見立てが妥当かどうか、私にはにわかには判断できかねますが……。

ただ──ここでさらに話が飛躍するのですが──。

ここまで書いたような話と、風刺画を見て、私はこんな感慨に捉われたりするのです。

・ある意味、「グレート・ゲーム」は今日も続いているのではないか。

・上の風刺画の「日本」の役を、今まさに演じているのがウクライナなのではないか。

・英国のこの戦争に関する、異様なまでの前のめりぶりは、そのことの現れなのではないか。

何の落ち度もない平和なウクライナが「ある日突然」ロシアの侵攻を受けたかのように思われている方は、上のような記述に全く同意されないでしょうが。コトはそんな単純な話ではありません。
なお、侵攻当初、私は次のような文章を書いています。ご参考まで。

・さらに類推を進めて。
「歴史は繰り返す」で、日本にも改めて同じような道が準備されていはしないか。

──と言っても、絵の構成に若干の手直しは必要で。

栗を煎っているのは中国人。「日本」はメタボの中高年。米と英の位置は入れ替える。

そんな感じの絵図が今まさに描かれつつあるのではないか……と。


ビゴーの風刺画


前回の記事で一言だけ触れたビゴーについて。

有名なビゴーも「日清戦争」「日露戦争」に関連する風刺画を描いています。

まず、日清戦争前の情勢を反映した風刺画。

"Une partie de pêche."
訳すなら「釣りの勝負」ぐらいの感じでしょうか?
釣ろうとする魚には「CORÉE」(朝鮮)とあります。
ロシアも釣り竿は持参していますが、とりあえずは模様眺めです。いわゆる「漁夫の利」を狙っているようでもあります。

出典は、1887年2月15日の(第二次)『トバエ』1号。
川崎市民ミュージアムのサイトで閲覧できます。

時期的には、日清戦争が起こるよりだいぶ前に予言的な風刺画を描いていたことになります。と言っても、絵の雰囲気的に、やがて戦争になるとまでは想像していなかったようでもあります。

* * * * *

次に、日露戦争の風刺画。

前回扱ったブラーケンシークの絵と概ね同趣向の作品。
なお、この風刺画は絵葉書形式の連作のようです。
ボストン美術館のサイトで「ビゴー」で検索すると、本作のほか、関連作もいくつか鑑賞できます(ダウンロードも可能)。

さて、このボストン美術館のサイトの説明文では、上の絵の制作時期は1904-05年頃となっていますが。

実は、それとは全く異なる情報もありまして。

上の図版は(ネットで拾ったのですが)、海野福寿『集英社版 日本の歴史 (18) 日清・日露戦争』(1992年)内の解説文だとのこと。内容がボストン美術館の説明とは明らかに食い違っています。

私の直感としては、何となく、ボストン美術館の説明の方が正しそうな気がするのですが。それは、とりわけ連作としてみた場合、これらの一連の作品が1899年頃に描かれたものと考えるのは、どうも不自然な気がする、という程度の理由です。
要は単なる「カン」です。

なお、次の2枚の絵もビゴーによるもので、いずれも1895年(明治28年)刊の「極東における古きイギリス」という画集に収録のものだそうです。
次の1枚目などは、上のビゴーの絵や、あるいはブラーケンシークの絵とよく似た方向性のものですが、それらよりずっと早い時期に描かれていることになります。
ビゴーに先見の明があった……というよりは、日本居留の外国人の目に、当時の情勢は当たり前のようにこう見えていたと見るべきかもしれません。

(なお、以下のキャプションの文字起こしや翻訳も、必ずしも正解ではないかもしれません。)

キャプション:
Old England au Japon....
Ju suis là.... derrière, vas y, aie pus peur il est empaillé....
(日本における古きイギリス……
私はここだ……後ろにいる、行くんだ、恐れるな 彼はノロマだ……)

(empaillé は「剥製」の意味から転じて、愚図、ノロマのような意味になったもののようです。その本来の意味に引っかけて、ロシアを割とリアル寄りの熊として描いたのでしょうか。)


キャプション:
Which will have the rearing of the child ???(この子供の養育をするのはどちらだ???)

(なぜか英語なのは、後ろの英国人??の内心の声だから?)



「列強の中国分割」


最後に、これも有名な、列強による「中国分割」の風刺画。

この絵については、いつかちゃんと触れたいと思っていたのですが、なかなか書けずにいました。

今回は概略のみ書いておくことにします。

この絵の出典は "Le Petit journal" の「Supplément illustré」(イラスト入り付録号、ぐらいに訳すべきでしょうか)1898年1月16日号。

以下で見られます(仏国立図書館)。

参考までに。下のURLはタイトルページ。
https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k716261c/f1.item.zoom

絵の左下に「H.MEYER」と読むらしきサインが見えます。どうやらアンリ・メイエの絵かなと思うのですが。

一方、右下にも「PHG. V. Michel」というサインが見て取れます。合作なのかもしれません。
「PHG. V. Michel」でネット検索すると、他にもいくつかの絵がヒットします。が、具体的にどういう画家さんだとかいうような情報は見つけられませんでした。

キャプション
"EN CHINE  Le gâteau des Rois et... des Empereurs"
(中国 王たちと……皇帝たちのスイーツ)

Wikimedia Commons のこの絵の解説を信じるならば、

卓上にあるのは「ガレット・デ・ロワ」(王たちの菓子)。キャプションはこの菓子の名称に引っかけたものです。


大きく「CHINE」(中国)と書かれていて、もちろんこれは中国の国土の象徴。

描かれている人物は、左から、ヴィクトリア女王、ヴィルヘルム2世、ニコライ2世(以上は似顔絵=カリカチュア)、マリアンヌ(フランスの擬人化キャラ)、日本の武士で、それぞれ、英・独・露・仏・日を擬人化して描いているものです。
後ろの怪人物(?)は清国の官僚のカリカチュアで、特別なモデルはないと見るべきでしょうか。

「ガレット・デ・ロワ」に小さく書かれている文字については。

ヴィルヘルム2世がまさに切り分けようとしている部分に「KIAO-TCHÉOU」(膠州)=膠州湾租借地(今日の青島の周辺地域)。1898年にドイツが租借。

ニコライ2世が手をかけている部分に「PORT-ARTHUR」(旅順)=今日の大連市の旅順口区。1898年にロシアが租借。

要するに、どちらも1898年に列強が「租借地」とした場所です。

なお、英国は既に香港を手中におさめていましたが、1898年にいわゆる「新界地域」の租借をしたりしています。

(これらが、後に日本との戦争の舞台となるのは、ある意味、興味深い事実と言うべきかもしれません──日露戦争、WWI、WWII。)