映画『独裁者たちのとき』『プーチンより愛を込めて』『マリウポリ 7日間の記録』感想
はじめに
本稿は今年(2023年)のGWに固めて見た3本の映画の感想です。
『独裁者たちのとき』
『プーチンより愛を込めて』
『マリウポリ 7日間の記録』
元は、さるグループ内で見てもらう用に書いたメールですが、一応ここにも転載する考えはあって……でも、ほったらかしてました。
最近、note書き込みを多くしたので、その勢いで発掘&UPという次第です。
元のメールを送信したのは2023年5月12日となっています。
先にお断りしておきますが、3作ともかなり渋い評価をしています。特に『プーチン〜』については酷評していますので、お読みになる場合は、それを了承の上でお願いします。
あまり激しいネタバレは避けたつもりですが、それなりに内容に言及していますので、その点もご承知おきください。
(以下、メール本文)
以前、下記のニュースをここでもご紹介しました。
『民主主義とは ウクライナ侵攻、独裁者の人物像に迫る映画 今月相次ぎ公開』
さて、GWに、映画の日とか水曜割引とかを使ってこの3本とも見てきました。
結論から言うと、3作とも個人的にはいろいろ微妙でした(^_^;)。
ある程度、それは「想定の範囲内」でしたけど。
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ソクーロフ『独裁者たちのとき』。
原題は "Сказка"。個人的にこういう原題から離れた邦題って嫌いです。
販促的な事情からやむ無しっていうのはあるんでしょうが、「鑑賞者としての自分(オルターエゴ)」は「そんな事情に忖度してはならぬ」と言うのです(^_^;)。
閑話休題。
さて、上記記事だけ見るとヒトラーやらスターリンやらの事績(悪行?)をドキュメンタリー的だか寓話的だかに描いたような作品をイメージしたくなりますが。
これは、そういう方向性の作品ではありません。
どちらかというとロシア・東欧圏の映画にしばしば見られる「なにやら奇怪な幻想を映像化しました」系の作品ですね。
私自身が割と最近見た映画では、シュヴァンクマイエル「ファウスト」とかノルシテインの「話の話」とか。そういうのがやや近いかも。
ところで実は私、そういう系の作品って、あんまり好きじゃないんですよね(苦笑)。
教養のためと思って見はするんですが。
なので、本作も正直あんまり……なのでした。
別に本作品が悪いということではなく、単に私の好みからは外れていたというだけのことです。
「奇怪な幻想」系の映画としては、悪くない出来の作品なんじゃないかと思います。多分。
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『プーチンより愛を込めて』
原題は「プーチンの目撃者」 Putin's Witnesses (Свидетели Путина)
最近の作かと思ったら2018年の映画でした。ウクライナ情勢の関係から、日本でも遅れ馳せの公開となったものと思われます。
まぁそれはいいんですけど。
これは大いに批判したくなる作品でした。
監督のマンスキー氏はプーチン氏がエリツィンから権力譲渡を受けたタイミングあたりでプーチンの選挙PRビデオの作成を依頼され、そこで信頼を得た結果、就任当初の「プーチン大統領」の様子をいろいろカメラに収めることができた……ということのようです。
そうして撮られた素材は今となって貴重なものだと思いますし、いろいろ興味深く見れました。
ただ、映画の作りはどうにもいただけません。
現在のマンスキー氏はプーチン政権に批判的なようで──別にそれは構わないのですが──それを反映してでしょう、この映画は、とにかくプーチン氏にダーティなイメージ付けをしようと躍起になっている感じ。
しかし、そのために使用されている往時のフッテージは、およそその目的には合致していないのですね(苦笑)。
PR用の素材として撮影されたものだから、ある意味当然ですが、それらの素材にプーチン氏のダーティさを感じさせるものは何もなく。むしろいかにも有能そうな「新進の実務派政治家」が映っているばかりなのです。
それじゃ困るということなのでしょうが。例えば。
選挙対策チームが当選を祝う、ごく当たり前のようなシーンに、なにやら不穏な感じのBGMを配し。
「しかし、ここに映っているスタッフは後にほぼ全員が野党に移ったり、中には不審な死を遂げた人もいます」みたいなナレーションがついたりするのです。
この映画ではそんな演出が何度も出てきます。
誤解しないでほしいのですが。私は別にプーチン氏が清廉潔白で、後ろ暗いところなど何一つない政治家だと考えているわけではありません。
この映画が示唆したがっている(!)ように、政敵を暗殺するぐらいお手のものな人物なのかもしれない。
しかし、映画は映画であり、それ単体での表現芸術としての価値が問われるべきであり、端的に言って、とってつけたような文言ではなく映像それ自体に「語らせ」なくてはならないはず。
あいにくプーチン氏はカメラマンの前で「尻尾を出す」ようなヘマな政治家ではなかった……というだけのことかもしれません。しかし、それならそういうものとして、映画の作りようはあるはずです。
少なくとも、上に書いたような安っぽい仕掛けでミエミエの印象操作を仕掛けられたら、監督にも映画にも一切の信が置けなくなるんですね。
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作中、なかなか興味深かったのはプーチン氏が旧ソ連の国歌を(歌詞は変えるものの)ロシア国歌として、再起用を推し進めるくだり。
ここで監督は「自分は反対です」といって、プーチン氏と議論をします。
が、そこでプーチンがする議論は──その政治哲学に賛否は分かれるとしても──実に真っ当なもので、それが逆に意外でした。
大まかにはこんな議論だったかと。
「ソ連の体制が良くないものだったとしても、当時のものを全て悪いものとして捨て去るのは妥当なことだろうか」
「当時、自分の国を誇りに思って生活していた中高年の人から、すべてを奪うことになるのではないか。それは不当なことではないだろうか」
「ロシアの国民一人ひとりと個別に議論できるなら、私は説得できる自信がある。でもロシアの人口は一億人以上もいて、到底そのようなことはできない。残念なことだが。」
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話は少し変わりますが、旧東独では「アンペルマン」騒動というのがありました。
東独の歩行者信号のキャラ(アンペルマン)がなかなかコミカルで親しみ深いデザインだったのですが。
ドイツ統一後……信号機は全部、旧西独側の規格で揃える……ついてはアンペルマンの信号機は撤去ね、と。
いう次第で廃止の方向になったのですが。
これに対して反対運動が起こったのです。
旧東独の体制には問題があったとしても、アンペルマンには何の問題もないだろう、と。
さらに言えば、東西は建前上、対等の統合だったとはいえ、実際には何でもかんでも旧西側のものが「正しい」ものとして押し付けられる。そのことへの旧東側の人の不満がプチ爆発をした「事件」だったかもしれません。
結局アンペルマンは今でも旧東独地域で見ることができるようです。
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また私が思い出すのは、バルト三国を周遊した時のこと。
これらの国では、旧ソ連に組み込まれていたことを
「不当に併合されたのであり、我が国の正統な歴史ではない」
「我が国は旧ソ連の一員だったことはない」(←ソ連政府がそう言い張り、そう見せかけていただけである)
……と総括しているようです。
さて、ここで日本人としては、日帝時代の朝鮮半島のことなども念頭に浮かんで、なかなかコメントしづらかったりもしますが。
そんなまとめ方には、やっぱり無理もあるんじゃないかなぁと思ったりするのです。
現在の公式見解はどうあれ、これらの国々の中高年の人たちは「レーニン印」のお札を使って暮らし、それなりに幸せな青春の思い出・家族の思い出を積み上げもしたと思うのですが。
そういうこと一切合切を「それは正しい歴史じゃない」の一言でバッサリ切って捨てていいものなんだろうかと。
まぁ、こういうことはそれぞれの国の人が決めることであり、部外者がくちばしを挟むことではないのかもしれませんが……。
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話を戻しますが、そんなようなことも頭にありましたので、プーチン氏の議論には私は結構頷ける部分があったのです。
ただ、映画の中では「例によって」不穏なBGMが配され「こうして、旧ソ連時代のような全体主義的統治の復活が進められていったのです」とかいった説明がなされます。
いえ、実際、プーチン氏の「真の狙い」はそういうところにあり、上に書いたような議論はそれを覆い隠すカモフラージュに過ぎないのかもしれません。
それは私には何ともいえませんが。
少なくとも、その点を「映像自身に語らせる」ことにこの監督が失敗していることは確かだと思います。
例えある映画が「政治的メッセージ」として「正しい」ことを主張していても、映画として説得力を持った作りになっていなければ、それは駄作です。
ド素人が描いたクチャクチャの漫画のラストのコマに『戦争反対!』と書いてあったら、それは「反戦を訴えた感動の名作」に自動的に昇格するのか? そうはならないことは言うまでもないでしょう。
とまぁ、結構酷評しましたけど。
以前にもご紹介した監督インタビューを最後に念のため再掲しておきます。39分30秒くらいから。
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『マリウポリ 7日間の記録』
原題は "Mariupolis 2"
"Mariupolis" という2016年の映画が先にあって(日本未公開)……
それの「続編」ということになるようです(2022年)。
ただ──私はネタバレ避けのためなるべく余計な情報はシャットダウンするようにしているので、映画を見終えるまで知らなかったのですが──監督は撮影中に亡くなっているのですね。
それで、監督が遺した映像素材を元に、とにかく作ったのがこの映画であると……。
この映画の「良いところ」を先に書きますと。
上に書いたような事情もあるのでしょうが、監督が遺したフッテージをあまりまとまりなく「垂れ流しているだけ」という感じもあったりします。
が、それが却って良いという面があって。
ある日、勝手に押し寄せた戦火。すごく非日常的なシチュエーションですが、住民はそんな中でもなんとか「日常生活」を組み立てて、日々を生きていくしかない。
そういう「突然戦場になった地域の人たちの、非日常的な『日常』」という、頭の中ではなかなか想像しにくい状況が、なまじ作為に乏しい垂れ流し的映像だからこそ、却って「リアルに」疑似体験できるという感じがありました。
あの人死んじゃったね、みたいなことをおじさんたちが、日常会話的に淡々と話してたりして。
やっぱり戦争って嫌ですね。
一方で、問題点としては。
これも上に書いたような事情で、きちんとした「映画作品」とは見なし難い部分があります。要は不完全作。
それはしょうがないとしても。
どうもこの映画、私には引っかかるところがあります。
疑問のいくつかは前作とかパンフレットとかを見れば分かるのかもしれませんが……。
まず、撮影は基本的に現地の教会を中心に行われます。破壊を免れた教会を一種の避難所として当面の暮らしを送る人たちに、撮影者(監督?)も合流して、その「生活ぶり」を映していきます。
ただ、よく分からないのは──この教会は「福音派」だったか何か、とにかくウクライナで主流の教派ではないようでした。
そのことを踏まえて。
ここで撮影することにしたのは、たまたまここが手配できた(前作で繋がりが出来たか何かで)というだけなのか、何か意図があってのことなのか?
ここに避難しているのは、普通の「近隣の人たち」なのか、ウクライナにおいて何かしら(宗教的、社会的、その他で)特別な属性を持つ人たちなのか?
何かそうした微妙なニュアンスがありそうにも思えるのですが、映画の中で特段の解説はありません。
(現地事情に通じている人ならその辺のことは説明不要で察することができるのかもしれませんが……。)
さて、映画が進行すると、その避難民の人たちが立ち退きを求められる様子が映し出されます。
「ここを追い出されても私たちは行くところがないのに」とおばさんが嘆いたりします。
でも、ここが何だかよく分からないのです。誰が、何のために、彼らを立ち退きさせようとしているのか? 全然説明がありません。
ただ、思いますに。
撮影陣が乗り込んだのは「ロシア側に攻められている地域」=「まだウクライナ側が掌握している地域」のように見うけますので。
これは、ウクライナ軍が、兵舎あるいは攻撃/防御拠点として用いるため、この教会を接収することにした、ということではないか、と。
(少なくとも、攻めてきたロシア軍に占拠されたというシチュエーションには全く見えない。)
ただ、それをあからさまに描写するとウクライナ軍への批判につながるかもしれない、という忖度から、そこをボカしたのではないか、と。
なんだかそんな気がするのです。
邪推と言われるかもしれませんが。
邪推ついでにさらに書きますと。
公式サイトには
「クヴェダラヴィチウス監督は(中略)3月30日、同地の親ロシア分離派勢力に拘束され、殺害された。」
……とあります。
しかしこれもあまりにもざっくりした説明で。
なぜ監督が拘束され、殺害されるようなことになったのか。その辺りの詳しい事情は全く不明なのか?
さすがに、監督の死に関わることで「ウソ」は言わないでしょうけど。
私の第六感は、ここまで書いてきたようなこと全体を通して
「何かこの映画、重要な情報を観客に伏せてないか???」
……と。
そんな風に告げるのです。
いえ、やっぱりそんなのは全くの邪推で、映画のパンフその他、然るべき資料に当たれば、こうしたことすべて、ちゃんと腑に落ちるような形で解説されているのかもしれません。
ですが、とりあえずのファーストインプレッションとしてそのようなことを思った、と。
そんな感じです。
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この文章は気が向いたらnoteにも上げるかもです。