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谷崎潤一郎『鍵』Vol.2 妻の日記:1月4日(朗読用)
こちらは #NTR朗読RTA_鍵 イベントの為にリライトしたものです。
朗読した音声は、原作の日記の日付と同じ【1月4日以降】にご利用のプラットフォームに投稿して頂き、以下を添付の上、投稿先のリンクをXにポストして下さい。
妻の日記:1月4日
タグ #NTR朗読RTA_鍵
企画 @AmanumaMilk
一月四日 。
………今日は珍しい事件に出遇(であ)った。
三ガ日の間、書斎の掃除をしなかったので、今日の午後、夫が散歩に出かけた留守に掃除をしにはいったら、あの水仙の活けてある一輪挿しの載っている書棚の前に、鍵が落ちていた。
それは全く何でもないことなのかも知れない。
でも夫が何の理由もなしに、ただ不用意にあの鍵をあんな風に落しておいたとは考えられない。
夫は実に用心深い人なのだから。
そして長年の間、毎日日記をつけていながら、かつて一度もあの鍵を落したことなんかなかったのだから。
………私はもちろん夫が日記をつけていることも、その日記帳をあの小机の抽出(ひきだし)に入れて鍵をかけていることも、そして、その鍵を時としては書棚のいろいろな書物の間に、時としては床の絨緞の(じゅうたん)下に隠していることも、とうの昔から知っている。
しかし私は、知ってよいことと知ってはならないこととの区別は知っている。
私が知っているのはあの日記帳の所在と、鍵の隠し場所だけである。
決して私は、日記帳の中を開けて見たりなんかしたことはない。
だのに心外なことには、生来疑い深い夫は、わざわざあれに鍵をかけたり、その鍵を隠したりしなければ、安心がならなかったのであるらしい。
………その夫が今日、その鍵をあんな所に落して行ったのはなぜであろうか。
何か心境の変化が起って、私に日記を読ませる必要を生じたのであろうか。
そして、正面から私に読めと云っても読もうとしないであろうことを察して、
「読みたければ内証で読め、ここに鍵がある」
と云っているのではなかろうか。
そうだとすれば、夫は私がとうの昔から鍵の所在を知っていたことを、知らずにいたということになるのだろうか?
いや、そうではなく、
「お前が内証で読むことを、僕も今日から内証で認める、認めて認めないふりをしていてやる」
というのだろうか?………
まあそんなことはどうでもよい。
かりにそうであったとしても、私は決して読みはしない。
私は自分でここまでときめている限界を越えて、夫の心理の中にまではいり込んで行きたくない。
私は自分の心の中を人に知らせることを好まないように、人の心の奥底を、根掘り葉掘りすることを好まない。
ましてあの日記帳を私に読ませたがっているとすれば、その内容には虚偽があるかも知れないし、どうせ私に愉快なことばかり書いてあるはずはないのだから。
夫は何とでも好きなことを書いたり思ったりするがよいし、私は私でそうするであろう。
実は私も、今年から日記をつけ始めている。
私のように心を他人に語らない者は、せめて自分自身に向って語って聞かせる必要がある。
ただし私は自分が日記をつけていることを、夫に感づかれるようなヘマはやらない。
私はこの日記を、夫の留守の時を窺って書き、絶対に夫が思いつかない或る場所に隠しておくことにする。
私がこれを書く気になった第一の理由は、私には夫の日記帳の所在が分っているのに、夫は私が日記をつけていることさえも知らずにいる、その優越感がこの上もなく楽しいからである。………
一昨夜は年の始めの行事をした。………
あゝ、こんなことを筆にするとは何という恥かしさであろう。
亡くなった父は昔よく
「慎レ独ひとりをつつしむ」 (読み方:君子はひとりをつつしむ ※1)
ということを教えた。
私がこんなことを書くのを知ったら、どんなにか私の堕落を歎(なげ)くであろう。
……夫は例により歓喜の頂天に達したらしいが、私はまた例により物足りなかった。
そしてその後の感じがたまらなく不快であった。
夫は彼の体力が続かないのを恥じ、私に済まないということを毎度口にする半面、夫に対して私が冷静過ぎることを攻撃する。
その冷静という意味は、彼の言葉に従えば私は「精力絶倫」で、その方面では病的に強いけれども、私のやり方はあまりにも「事務的」で、「ありきたり」で、「第一公式」で、変化がないというのである。
平素何事につけても消極的で、控え目である私が、あのことにだけは積極的であるにもかかわらず、二十年来常に同じメソッド、同じ姿勢でしか応じてくれないというのである。
―――そのくせ夫は、いつも私の無言の挑みを見逃さず、私の示すほんの僅わずかな意志表示にも敏感で、直ちにそれと察しるのである。
それはあるいは、私の頻繁過ぎる要求に、絶えず戦々兢々(せんせんきょうきょう)としている結果、かえってそんな風になるのかも知れない。
―――私は実利一点張りで、情味がないのだそうである。
僕がお前を愛している半分も、お前は僕を愛していないと、夫は云う。
お前は僕を単なる必要品としか、―――それも極めて不完全な必要品としか考えていない、お前がほんとうに僕を愛しているなら、もっと熱情があってもよいはずだ、いかなる僕の註文(ちゅうもん)にも応じてくれるはずだと云う。
僕が十分にお前を満足させ得ない一半(いっぱん)の責めはお前にある、お前がもっと僕の熱情をかき立てるようにしてくれれば、僕だってこんなに無力ではない、お前は一向そういう努力をしようとせず、自ら進んでその仕事に僕と協力してくれない、お前は食いしんぼうの癖に手を拱(こまね)いて据え膳の箸を取ることばかり考えていると云い、私を冷血動物で意地の悪い女だとさえ云う。
夫が私をそういう眼で見るのも一往(いちおう)無理のないところがある。
だけど私は、女というものはどんな場合にも受け身であるべきもの、男に対して自分の方から能動的に働きかけてはならないもの、という風に、昔気質(むかしかたぎ)の親たちからしつけられて来たのである。
私は決して熱情がないわけではないが、私の場合、その熱情は内部に深く沈潜する性質のもので、外に発散しないのである。
強いて発散させようとすれば、その瞬間に消えてなくなってしまうのである。
私のは青白い熱情で、燃え上る熱情ではないということを、夫は理解してくれない。
………この頃になって私がつくづく感じることは、私と彼とは間違って夫婦になったのではなかったか、ということである。
私にはもっと適した相手があったであろうし、彼にもそうであったろうと思う。
私と彼とは、性的嗜好が反撥し合っている点が、あまりにも多い。
私は父母の命ずるままに漫然とこの家に嫁ぎ、夫婦とはこういうものと思って過して来たけれども、今から考えると、私は自分に最も性の合わない人を選んだらしい。
これが定められた夫であると思うから仕方なく怺(こ)らえているものの、私は時々彼に面と向ってみて、何という理由もなしに胸がムカムカして来ることがある。
そう、そのムカムカする感じは、昨今に始まったことではなく、そもそも結婚の第一夜、彼と褥(しとね)をともにしたあの晩からそうであった。
あの遠い昔の新婚旅行の晩、私は寝床にはいって、彼が顔から近眼の眼鏡を外したのを見ると、とたんにゾウッと身慄(みぶる)いがしたことを、今も明瞭に思い出す。
始終眼鏡をかけている人が外すと、誰でもちょっと妙な顔になるものだが、夫の顔は急に白ッちゃけた、死人の顔のように見えた。
夫はその顔を近々と傍(そば)に寄せて、穴の開くほど私の顔を覗き込んだものだった。
私も自然、彼の顔をマジマジと見据える結果になったが、その肌理(きめ)の細かい、アルミニュームのようにツルツルした皮膚を見ると、私はもう一度ゾウッとした。
昼間は分らなかったけれども、鼻の下や唇くちびるの周まわりに髯が微かに生えかかっているのが(彼は毛深いたちなのである)見えて、それがまた薄気味が悪かった。
私はそんなに近い所で男性の顔を見るのは始めてだったので、そのせいもあったかも知れないが、以来私は、今日でも夫の顔を明るい所で長い間視(み)つめていると、あのゾウッとする気持になるのである。
だから私は彼の顔を見ないようにしようと思い、枕もとの電燈を消そうとするのだが、夫は反対に、あの時に限って部屋を明るくしようとする。
そして私の体じゅうのここかしこを、能(あた)う限りハッキリ見ようとする。(私はそんな要求にはめったに応じないことにしているけれども、足だけはあまり執拗(しつこ)く云うので、已(や)むを得ず見せる)
私は夫以外の男を知らないけれども、総体に男性というものは、皆あのように執拗いのであろうか。
あのアクドい、べたべたと纏(まつわ)りついてさまざまな必要以外の遊戯をしたがる習性は、すべての男子に通有(つうゆう ※2)なのであろか。………
奥様、朗読お疲れさまでした。
【次回】Vol.3 夫の日記:1月7日
12月7日 こちらに投稿予定です。
こちらは当note管理者・甘沼が主催する、朗読イベント用の書き下し文です。
イベントご参加の方に向けて、青空文庫収蔵 谷崎潤一郎 作『鍵』を、読みやすくリライトさせて頂きました。
エントリー不要、途中参加可、タグをつけるだけのフリーイベントですので、noteの皆様も、ぜひご参加ください。お待ちしております。
※1 「慎レ独ひとりをつつしむ」 《「礼記」大学から》君子は他人が見ていない所でもその行いを慎む。 https://dictionary.goo.ne.jp/word/君子は独りを慎む/#:~:text=君子は独りを慎む,ひとりをつつしむ)とは?
※2 通有 [名・形動]
同類のものに共通して備わっていること。また、そのさま。
例「若者に—な(の)性癖」
https://dictionary.goo.ne.jp/word/通有/
原文(引用元)青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/001383/files/56846_58899.html
初出「中央公論」中央公論社 1956(昭和31)年1月、5月~12月
【朗読用書き下し文 ポリシー】
当作品は、夫の日記の部分がカタカナで書かれている為、全体的にリライトさせて頂きました。
①青空文庫を原文とする
②AIは使用しない
③難読漢字は残し、ふりがなを加える
④注釈入りの漢字は、適宜、現代漢字や平仮名に置き換える
⑤朗読時に読みやすいよう、適宜、改行、段落、読点、句読点、平仮名を加える。
【企画】眠れる森🌙まみ https://twitter.com/NemureruMami