「愛されたい」なんて求めなくても。
今日も黒歴史シリーズをお送りします。
以前noteのお友達とかにも笑い話として話したことがあったのですが、昔ノートに書いた「理想のパートナー像」なるものを発掘して愕然とした話。
よく引き寄せとかであるじゃないですか、「こんな人と付き合いたいなっていう理想を箇条書きで書き出してみましょう、さすれば近未来にそのようなパートナーが現れます」みたいな。ソレです。
で、ノートを掘り返してみて、私ほんとに愕然としたんですよ。
私が理想のパートナー像として挙げていたもののほとんどが「〜してくれる人」という形のものだったんですね。
穴掘って隠れたいくらい恥ずかしいですが、その一部をここでご紹介しますね。(読んでいていたたまれなくなったりイライラしてくる場合はスクロールしてください)
どこの重い女だよ。こえーよ。
無価値感からくる承認欲求って重い女を作るんだなってまじで思いました。
(他人事みたいに書いてますが反省してます、すいません)
昔はこんな感じの粘度高めの女でしたが、やっぱり自分と仲良くなって幸せとか満足を自給自足できるようになることで、承認欲や欠乏感を満たしてもらうことを他人に求める気持ちってそれなりに消失していくもので、
今はなんかもう、基本的には「生きててくれたらそれで最高〜(できれば元気でいてほしいなあ)」くらいに思ってます。
「ずっとその目に私を映していてほしい」とか「末永く私のお気に入り🧸でいてほしい」とか願ったり望んだりはしますけど、まー結局は誰しもが他人同士なんでね。
というか私自身が自分にたいして「息してるだけで尊い」と思ってるから、それがそのまんま対人関係に表れているという感じですね。
なんか、上の理想像を書いた頃に私がパートナーシップだと思っていたものって、単なる責任や承認欲求の押し付け合いに過ぎなかったんだなーって、振り返ってみてほんと思います。
今はもう、相手が近くで生存しててくれたら私はいかなる状況からも勝手に幸せを生成したり何かを得て生きられるんで、それで完結、いてくれてありがとうもふもふ🐑って感じです。
※同時に「だからあなたも私にあんまり期待しないでね」とも思ってますが。
というかそもそも、一人の人間にたいして「パートナーである」という理由だけで、愛も人間性も経済力もわかってもらうことも、なんでもかんでも求めようとするほうが無理のある話なんだよね。
これは家族にたいしてとかも言えることなんだけどさ。
そして他人にあれこれ求めることの弊害として、何より自分自身にたいして「他人の許可のもとで生きる」というスキを与えてしまうことになる。
つまり、自分の寂しさなり欠乏感なり承認欲求なりを満たしてもらうことの “交換条件” として、自ら他人に許可を取りながら、他人の許しを乞いながら生きるという生き方を選んでしまっていたんだよね。私という女は。
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