叩き上げのアイデンティティ
世の中には二種類の人間がいる。
叩き上げか、そうでないかだ。
とカッコつけてみたけど、あながち間違いじゃないように思う。
デジタル大辞泉によれば叩き上げとは、「下積みから苦労して一人前になること。また、その人。」という。
昨今、巷を騒がせている某超マンモス大学の理事長がその好例だ。
報道によれば、学生横綱を経て一職員として大学組織に参画して以降、あらゆる手段をつくして頂点まで登りつめたらしい。
まさに叩き上げの極みである。
前首相のあの方も、夜学に通いながらダンボール工場で働き、議員秘書から市議会議員、そして国会議員、大臣、官房長官、首相と一歩一歩着実に出世を遂げた。
そういえば、わたしの父も、高卒ながらも職場で日々一流大学卒の秀才たちと丁々発止のやりとりを繰り広げている。
そんな彼らに共通するアイデンティティは反骨心だと思う。
某理事長の場合、一般的に「頭の良い人たち」とされる教員が、法人組織を牛耳り、とくに自らの大学よりもさらなる名門の出身者によって抑圧されてきた経験があったのではないかと思う。
大学組織の多くは、出身者と非出身者で溝ができやすく、長年果てしない抗争を続けているとの噂も聞く。
また前首相の場合、「世襲」というエスカレーターでどんどん出世のピラミッドを登っていく同僚たちに対し、自らは急な階段をいくつもいくつも踏みしめながら、反骨心とともに歩んできたのだと思う。
わたしの父も、大卒との給料の差、待遇の差、そして出世にはどうしても限界があるというハンディキャップをつねに抱えながら、いかに渡り合うかを第一に考えてきたに違いない。
もちろん、いくら生き残るためとはいえ犯罪は犯罪だし、違法でなくとも悪いことは悪い。
だけれども、そうでもしなければ組織の中で生き残っていけないようなら、それは組織のほうに問題があるように思う。
そのことを念頭におかなければ、某理事長の薫陶を受けた第二第三の存在が現れるだけだと思う。
実際、なんだかんだいいつつ某理事長のように傍若無人に生きてみたいと思っている人は少なくなさそうである。
叩き上げとはいわば、親のもつ資本による格差が連綿と再生産され続けるこの社会に、自ら勝ち得た能力を積み上げて挑んでいくことだろう。
その意味で叩き上げはある種のロマンであり、リアルの上限値でもあるのかもしれない。
そんなわたしも、叩き上げ気質。
写真は港区愛宕にある、出世の石段より。