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ひと夏の覚え書

 これは創作でもなんでもなく、先日見た夢の備忘録だ。あの出来事が夢だったのかは定かでなく、もしかしたらただの金縛りだったのかもしれない。それは未だに、わからない。

 あの日私たちは大文字山を見たあと、ホテルに戻った。直前に取ったホテルだったから、ツインルームしか空いてなかった。大好きなあなたと狭いシングルベッドで身体を重ね、朦朧とした意識の中で何度も寝言と接吻を交わしながら目覚めを幾度なく繰り返し、眠りの浅瀬にだらしなく身を委ねていた。

 愛撫と眠りの狭間で朦朧とした意識の中にいた時、あなたは化粧室に向かった。バスルームの扉が閉まったのと同時に、私の身体には何者かの体重がのしかかった。姿は見えぬが身体は徐々に重くなり、腹までかかっている布団にはたくさんの手形。身体が重くなるのに比例して、手形の数も増えていった。初めての経験であったのにもかかわらず、これが金縛りなのだとすぐに理解した。しかし薄暗い部屋でひとり、増えていく手形と重くなっていく身体を平常心で傍観し続けられる程、私は強くなかった。背筋を冷やしながらあなたの帰りを待っていた。そんな時なのに思考はやけに瞭然としており、この部屋番号が402号室であったことが過ぎる。あなたと「4と2で"死に"って、縁起が悪いよね」とチェックイン直後に苦笑いを向けあったあの時間を、そしてホテルのフロントで焚かれていたお香を不自然に感じたことを思い出すまでに、そう時間はかからなかった。

 扉が開き、バスルームから光が漏れる。あなたが部屋に戻ってくる。「今ね、金縛りにあっていたの」「そうだったの?大変だったね」会話を交わす間も布団の上の手形は増えていき、身体はどんどん重くなる。この瞬間、私は夢を見ているのだと悟った。夢の中でも金縛りにあっているのだ。そう確信した時、また扉が開いた。数秒前に部屋に戻ってきたはずのあなたが、また扉を開きこちらを見ている。「今ね、金縛りにあっていたの」「そうだったの?大変だったね」手形の数も身体への負荷も、止まらない。そしてあなたはまた、開いた扉から出てくる。「今ね、金縛りにあっていたの」「そうだったの?大変だったね」そんな会話を何度したか、もはや思い出せない。

 私の背筋を流れ続ける冷や汗を、扉の開く音が遮った。バスルームの電気は付いていなかった。暗闇の中で、あなたと目が合う。暗いのに、あなたの輪郭や目、鼻、唇がやけに鮮明に見えたのだった。「今ね、金縛りにあっていたの」「そうだったの?大変だったね」夢と同じ会話をしてから、あなたは寝床に戻る。「怖かったね、でももう大丈夫。安心して寝ようね。」私の身体を胸に寄せ頭を撫で、頬に優しい接吻をする。身体にはあなたが委ねる以外の体重もまだあったが、布団の上の手形は消えており、本当に夢から醒めたのだと気付く。朝までゆるやかに魘され続けた私を、夜な夜な撫で抱きしめ接吻するあなたがいなければ、私は静寂な恐怖から解放されなかったのかもしれない。夢か金縛りか区別がつかないものに、羽交い締めされ続けたのかもしれない。

 喉が渇いている、あの日からずっとだ。あなたの耳から首筋を伝う私の舌先は、ひどく乾燥しザラザラしている。これは送り火に乗れなかった魂の悪戯なのだろうか?それとも402号室の所為なのか?あなたとの心地よい行為に耽り大の文字を見れず笑い合った所為か?墓参りに行かず、あなたと過ごす選択をしたことがマズかったのだろうか?私のだらしなさを呪う霊の仕業だったのか?奇なる出来事は奇なるままで、薄暗くノスタルジックなひと夏の思い出として、消化されていく。この出来事が夏の風物詩によって、そしてあなたによって、日を重ねるごとに美化されていく。この喉の渇きは、そんな美しいものではない。私の布団に現れた手形は、何人分の手形だったのだろうか。お盆の中日にサンダルで鴨川の浅瀬であなたと追いかけっこをした。茹だる暑さに耐えられず、お盆の川にざぶんと入った。だからか?足首に付着したミジンコを指さしあなたと笑った尊い時間に、何かが乗り移ってしまったのか?奇なる経験と言うのも大袈裟な気がするが、備忘録という形でこちらに記しておく。これは創作でもなんでもなく、先日見た夢の備忘録だ。あの出来事が夢だったのかは定かでなく、もしかしたらただの金縛りだったのかもしれない。それは未だに、わからない。

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