女の子に生まれていたら。
「女の子に生まれていたら。」と、よく想像したものだった。女の子に生まれていれば、表立って泣いたり、痛がったりすることを許された。スポーツをする必要も、力仕事も不要。大嫌いな人前で、小難しい仕事の提案をする必要もない。勉強ができなくても、適当に結婚し、適当に子供を産み、適当に養ってもらうことができる。最高の人生。女性万歳。そんなことを思っていた。男に生まれた人生の先を思い、日々背筋が寒かった。
それから20年弱。今、私は「男で良かった。」と安堵する。私は勉強がしたい。ビジネスがしたい。限りない世界で羽ばたいていたい。あの時、あの苦労をしなければ。「男なのだから」などと理不尽に言われていなければ。「そんなことまでしなくて良いんだよ」と耳元で囁かれ続ていたなら。果たして、今の私はあっただろうか。そう考えて、背筋が寒くなる。私は努力や、苦労が嫌いだ。それ以上にできない自分が嫌いだ。向かい風に見えた追い風を身に纏って、ここまで突き動かされて来たことは、全く幸運である。私は申し訳の立たないほど運に恵まれている。
東京大学の祝辞が話題になっている。大学受験や、会社における女性のあり方について、何かを述べるつもりはない。私は女性でない。女性で無い以上、「いや、実は女性としては、実際にはこういう風に考えていて…」などとわかった風に口を利くのは、冒涜と言えるだろう。女性がどのようにあるべきか、その価値観は女性が決めて良いし、女性が決めなくてはいけない。ずっと男が定義したそれらを、変えなくてはいけない時だ。
その議論の過程で、今一度思い出して欲しい。男性社会に溶け込んだ、そうせざるを得なかった、そうせんと今まさに格闘している女性達の存在を。想像して欲しい。彼女達は、新しい時代にどこに向かうのだろう。彼女達を、礎に据えてはいけないと思う。何度外されたかしれない梯子を、もう外してはいけないと思う。
どのように新しい女性像を確立していくのか、このプロセスは複雑だ。そして、この複雑なプロセスへの参画、それ自体が重要だ。自ら輝かなければ月のままである。もちろん、男性に集まり過ぎた光を、あるべき場所に戻す作業の責任はほとんど全て男性にある。あるべき場所を決める権利は女性にある。プロセスの果てに輝く光を女性同士が分かち合えるように、今一度思い出して欲しい。この難事業の成否は、つまるところその1点に尽きると思う。
何かのお役に立ちましたなら幸いです。気が向きましたら、一杯の缶コーヒー代を。(let's nemutai 覚まし…!)