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「文章嫌い」を克服した小さなきっかけ。

漫画や小説は好きだった。目の前に情景が浮かんで、どんどん読み進めることができる。J・K・ローリングのハリーポッターも、「ダイの大冒険」や「 HUNTER×HUNTER」も、もう何回も、擦り切れるくらい読んでいた。問題は小難しい文章だ。特に「現代文」という科目。文章というものが心底嫌いだった。

勿論、何となくの意味はわかる。なぜなら、日本語で書かれているからだ。当時の私も日本語を巧みに操ったものだし(注記するまでもなく、日本は識字率100%だ)、クラスの皆とも日本語で流暢に会話していた。だから、"何となく"はわかる。

しかし、行き詰まる。問いと選択肢を前に、先ほどまで必死に頭の中で音読して得たイメージと照らし合わせようとするのだが、どうにも上手くいかない。もう一度頭から読み進める。やはりわからない。その繰り返しだ。結局「まあ…これかな?」と消去法で選んでは、とんでもない点数を取る。その繰り返しだった。

英語も嫌いだった。英語の場合文章自体は平易だが、単語を知らなければ読めない。その意味も1つや2つだけでないし、構文や文法もよくわからない。頭の中で作り上げた結論は、文意のそれと真反対だったりする。「国語と英語、なくならないかな…。」ぼんやりそんなことを思いながら、机に突っ伏して体力を充填する。それが私の高校ライフだ。ちなみに数学も嫌いだった。浪人生の一丁上がりだ。

ある日の予備校の授業。もやもやしながら授業を受けていると、その日「現代文は対比だ」と先生が断じた。浪人生活中のことは、もうあまり覚えていない。けれど、そのことだけは鮮明に覚えている。長い文章のキーワードをあらかじめ仕切られた箱の中に仕分けるイメージ。文章を読む、理解することとは、つまるところ「分ける」ことなのではないか。その日、何かが弾けた。

「相談があるのですが…」

そういって困り顔で訪ねて来るビジネスパーソンは、大抵何を相談したいのか理解していない。頭の中の観念と概念がごちゃごちゃに混ざった中から、困りごとを伝えようと必死に概念をつなげて発話する。そんな体験が無いだろうか。一頻り聞いてから、私は白紙の上に縦横何本かの線を引き、話のキーワードを仕分けていく。

「話の内容はこんな感じかな?ちなみに、ここの部分は何が入るんだっけ?」

そうして無骨な表が出来上がる頃、やるべきことはもう明確になっている。相手も私も頭の中身は全く変わっていないのに、捉え方一つで冗長なイメージは確かな形を帯びる。「文章を読む」とは恐らくそういうことだ。

英語が少し好きになったのも、そういう捉え方ができるようになってからだ。何かの記号のように居並んでいたアルファベット達も、一つの文章、一つの段落、一つの文節毎に、今ではその役割を示してくれる。大小入り乱れたパズルのピース。不思議なことに、最近では「こうなりそうだな」と想定して、「ああ、やっぱりそういう展開だ」とか「ああ、こういう展開なのか」とピースを自作しながら読んでいる。こうなると、文章を読むスピードが格段に上がっている…気がする。そう思いたい。

1つ言えるのは、私が嫌いだったのは文章そのものではなかった、ということだ。ただ、物事を捉える術を持たなかった。文章が持つ意味を理解していなかった。ふとしたきっかけから、幸いそのことに気づくことができた。そして、今ではそれを持ち合わせている。今では自ら文章を読み、海外に英語を学びに行こうと手を挙げた。当時と変わらぬ足りない頭で。人生分からないものだ。

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nemutai
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