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「寅次郎心の旅路」

こんばんは。アポロンです。
ただいま、旅先の那須塩原。栃木ですね。
名湯ぞろいのようで、いたるところに旅館やホテルが林立しています。

二十一時のチェックインを済ませるために、予約したホテルへ向かっていたわけですが、終点のバス停から十分ほど歩かされました。
山間の夜は静かで、車両の行き交いもまばら。都会から追い出されてしまった闇は、ここぞとばかりに、あらゆる被造物を飲みこまんとするようです。
次第に夜目が利いてくると、周囲に聳える山々の輪郭は意識され、稜線が月明りに顕わとなる情景は、神々しくありました。
美と恐が調和して感じられる時間・空間というものは、実に少なくなってまいりましたね。

さて、ゆっくり温泉に浸かっていると、寅さんのセリフが思い出されてきました。第四十一作「寅次郎心の旅路」から。
いつもの如く、旅先の寅さん。列車に乗っていると、急ブレーキがかかる。その原因というのは、ある男の自殺未遂。線路に仰向けに寝っ転がって、轢かれる直前。間一髪のところで助かります。
この坂口(柄本明)という男。東京の企業に勤めるサラリーマン。日々の疲れが災いして、横文字ひしめく会議中、砂糖入れに珈琲を注いでしまう始末。
これを見かねた上司は、休暇を取ってこいと言うや否やの、自殺未遂です。公開当時(一九八九)の社会情勢を反映した描写でしょうか。と言って、今もそう変わらんものでしょう。

そこに、やってきました寅さん。枕木に寝そべる坂口へ一言。

「おい、死にぱぐっちゃったなぁ。えぇ。また、そのうちやりゃぁいいや。」 ※ぱぐるとは、「しそこねる」の意味。
にこにこと仏様のような笑顔をたずさえ、坂口を気遣いながら、車内へ連れて行きます。

向かう先は警察署。車掌(笹野高史)が言うには、
「お客さん、誠に恐れ入りますが、目撃者ということで。あの、警察まで一緒に、来ていただけますか」
すると寅さん。快活に申すには、
「俺がか?あぁ良いよ!俺はどうせ暇だから。うん。なぁ姉ちゃん!暇って顔してるだろ、俺?笑」
きゃっきゃ、きゃっきゃと女子高生。
過ぎゆく田園の風景が、なお旅情をかき立てます。

さて、場面は変わり、警察署の待合スペース。寅さんと車掌の二人。
寅さんが聞きます。

「おい、車掌さんよ。お前、今夜暇?」
「えぇ?」
「あの男。まっすぐこのまま放り出すにもいかねぇだろう、お前。えぇ?」
車掌は黙しざま、幾度か頭をタテに振り(渋っ面を浮かべ)、寅さんに付き合うことを承諾します。
奥から申し訳なげに、坂口がでてくる。寅さん。
「よし。じゃあ今夜、俺が面倒みてやる。な!俺について来い!はい、行こう!」
ということで、寅さん、車掌、坂口の三名は「花園旅館」に向かうわけです。

ここで漸く、思い出されたセリフのシーンに入っていきます。
風呂上がりの寅さんが、窓辺にかしこまる坂口へ言います。
「お前も風呂入ってきたらいいんだい、えぇ?宿は汚いけどさ、湯はおんなじだから。な!」
「なんというか、行きずりの人間でしかない私に、こんなにしていただいて。本当に、なんとお礼を申し上げてよいのか」
「よっぽど、あれかい。なんか、辛いことでもあったのか。えぇ?会社の上役に、いびられるとか。家庭のごたごただとか」
「僕、病気なんです」
「うつっ、うつるの?」
「いえ。時々、死にたくなりまして」
「はぁぁ。そら気の毒だなぁ。あ!ここの温泉はな、頭によぉく効くんだってよ。どうだい、しばらくここで、ゆっくり湯治してみたら。な!」
「お気持ちは有難いんですが、無断で会社を休んできておりますので、明日は出勤いたしませんと。今からですと、新幹線で、上野行きに間に合いますので、これで失礼しようかと」
「おい。お前がいないと、会社潰れちゃうのか?」
「そんなことありませんけど!」(驚いた様子で)
「だったら、良いじゃねぇか笑」
「でも・・・」
「いいか。俺はな。この忙しい身体にやりくりを付けて、今晩お前に付き合ってやろうと言ってるんだよ。」
「はあ。」
「それが迷惑なのか?」
「いえ、とんでもありません」
「だったら、俺の言うことを聞いて、会社なんか行くな。な?よぉし、風呂行ってこい!」
「はい」
と、一連の、風呂へ誘うくだりがございまして、待ってましたと、思い出されたセリフです。

『で、あのぉ桶にね。お湯をこう汲んで(風呂桶に湯を汲む素振り)、何杯も何杯もこうやって(頭に注ぐ素振り)かける。分かったな?じゃあ、行ってこい!』

「何杯も何杯も」と言いながら、桶のお湯を頭にかける寅さんの素振りが、極めて自然なことに驚きます。
このシーンを思い出すと、風呂桶にたっぷりと湯を汲み、「何杯も何杯も」頭へかけたくなるわけです。自宅の風呂では物足りない。
温泉宿の深夜帯。人の出入りが少なくなった頃合いが良い。頭から注ぐ。バシャバシャ!浴場にしぶき音が響いて、早々に止む。
これを、「何杯も何杯も」繰り返す。

こういうことを考えていると、泉質の効能云々より、温泉にはもっと重要な役割があるように思われます。
寅さんは言う。

「よぉし、風呂行ってこい!」
「で、あのぉ桶にね。お湯をこう汲んで(風呂桶に湯を汲む素振り)、何杯も何杯もこうやって(頭に注ぐ素振り)かける。分かったな?じゃあ、行ってこい!」

風呂とか、お湯とか、桶とか。
聞き慣れた言葉に違いないですが、寅さんが発すると別物になってしまう。祖父や祖母らの語り方にも、近いものがあります。

これらの言葉に付きまとう語感の優しさ、懐かしさというものは、経験(加齢)によって獲得されていくものなのでしょうか。
そうでないならば?


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