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「ニーチェの馬」

こんばんは。アポロンです。
本日は、映画紹介。「ニーチェの馬」(2011年)をみた感想です。

ハンガリー出身の監督、タル・ベーラの最後の作品とのこと。
五十六歳という若さで、監督業を引退なさっている。
先月公開された「グラディエーターⅡ」。その監督を務めるリドリー・スコットは、なんと八十六歳で現役です。そう考えると、やはり随分と若い引退。

配給がビターズ・エンド。最近では「PERFECT DAYS」なんかも、この配給会社でしたね。

さて、原題は「The Turin Horse」。トリノの馬。
真実かどうかはさておき、ニーチェはイタリア、トリノの広場で、鞭打たれる馬の光景に発狂。以降十年は、家族に介抱されながら過ごしたという、有名な話があります。

僕自身の、少ないニーチェの読書体験から、その発狂の理由は、どことなく想像の付くものです。
広大な大地を疾駆すること容易な駿馬が、轡をはめられ、手綱をぶらさげられ、荷馬車をおっている。
加えて、鞭の制裁に慟哭する悲惨な光景を目の当たりすれば、巨大であまりに繊細な精神をもったニーチェであるからこそ、自身がこれまで語ってきたことが、いとも簡単に蹂躙されているものと感じられ、発狂せざるを得なかったのではないか。
強くあろうとする人間の飛翔する(長い準備を経たうえで)刹那、翼は弾丸によって、射抜かれるのです。真実であれば、あまりに残酷な現実ですが、現実はニーチェの精神生活を知る由もない。
無情にも時間は過ぎゆく。

主要な登場人物は、父と娘の二名。それに一頭の馬。全編が白黒の世界です。馬は終始項垂れた印象で、沈鬱な作品世界そのもののようでした。

冒頭。
男(父)は、重々しい荷馬車を引いている。帰路にあるようです。
男の職は御者(馬車引き)。
この帰路。ニーチェの発狂直後かは、分かりません。ニーチェへの言及は、作品を通して、語られぬままです。

しかし鑑賞者は、そうだろう(発狂後の帰路)と憶測するでしょう。
男はなにを考え、帰路にあるのか。馬は、ニーチェに抱かれた温もり、未だ冷めやらぬままであるのか。

住居は堅牢な石造り。隣接する形で、馬小屋がもうけられています。
父が帰ると、娘が迎える。父娘は馬の装備を解き、荷馬車を小屋へ押し込めると、暗く湿っぽい屋内へ、馬を引き入れていきます。
娘はピッチフォークで干し草をひと掻きし、餌場へ投げ入れる。馬の豪壮気品ある体躯に似つかわしくない、簡素な食事です。
習慣と化した作業を終え、娘はひとつ、また一つと、扉を閉じて行く。そうして、最後に、鍵はかけられる。カメラは頑なに、馬を捉えたままであります。

こういうことを考える。
檻の中に押し込められた馬の生業とはなにか。隆起する肉体は、荷馬車を曳くためにあるのか。
ここまでのシーンで、言葉が交わされることはなく、不協和音と、心を荒ませる突風の音だけが、鉛の世界に響いています。

父親はふてぶてしく、着替えすら、娘に手伝ってもらう。娘は引かれる馬のように従順で、靴を脱がせ、シャツを脱がせ、作業をこなしていく。
部屋を見渡せば、貧相な家具類に、バリエーションに乏しくある衣服。使う食器は、毎回決まったもの。
食事は、ゆでた、大ぶりのジャガイモのみ。あつあつのジャガイモを素手でほぐし、塩をふっていただく。
これがまたうまそうだが、作中で登場する食事はジャガイモだけであるため、次第しだい、嫌気がさしてくるわけです。

作品は、全体を通して、二人の生活が描かれているのみ。六日間の出来事が、一日ずつ語られていきます。
監督は、神の六日間天地創造説を逆さまに解釈してみせたようです。インタビューで語っています。

『もし神が六日間で世界を創造したのなら、今何が起きているのか、そしてその六日間でどうやって世界を滅ぼすべきなのかを考えていました。
私たちは、その六日間について、馬について、そして馬を失った御者に何が起きているのかを語りたかったのです。御者は、仕事もお金もなく、命もないので、馬と同じように死んでしまうのです。』

今作は、明確な終わりが描写されているわけではありません。
父娘が、空っぽの取り皿を据えられた、暗澹たる食卓につき、ただ一点を凝視し続ける。そうして静かに、終幕していきます。

『私にとって、終末は大きなテレビ番組のようなもので、たくさんのことが起きる、本当に大きな出来事です。そして、私の見方では、世界の終わりはとてもシンプルで、とても静かで、ショーも花火もなく、終末もありません。ただ衰退し、どんどん弱くなっていき、最後には終わるでしょう。』

静かな終わりというものと、私たちの経験との交点は、「穏やかに苦しまず、息を引き取りました」といったドラマや実生活においての言葉、あるいは臨終に立ち会った経験ではないでしょうか。
私たちの記憶には、静かな終わりというものが、想像に難くない状態で蟠っている。

生を受けたと同時に、終末への道を歩み続けることは、誰しもに科された宿命に違いありません。
終末へ向かう道中には、タル・ベーラの言う『たくさんの』『大きな出来事』が用意されていることでしょう。
そうしていよいよ、個人の終焉が近づく時、一瞬の火花が、世界に雷鳴を轟かせ(※叫び、或いは凝視)、その火花を合図に、縮退していく生命のあり方というものは、静かな、ただただ静かなものと推察する。
底なし沼にはまった旅人が、未だ脱出の余地が残された点において、必死になり助けを求めはするが、助からぬ地点を矢庭に悟った時、旅人は静かに、沼の底へ沈んでいくしかない。
叫ぶことに疲れ、もがくことに疲れた旅人は、走馬燈のように思い出すのでしょうか。
死はなんと非(※悲でなく)劇的なものであり、『ただ衰退し、どんどん弱くなっていき』、極度の静寂を携えたものであるか、とういことを。
世界そのものの終末も、森羅万象の叫びは刹那的に轟くことでしょう。しかし、いよいよ終わりが迫る時、我々の想像を絶する静寂が、空間を満たしているのかもしれません。

作中での来客は、一名だけ。加えて、井戸を荒らす、旅団(ジプシー)の一行が登場します。この旅団のシーンが、唯一のスリル。なにをしでかすか分からない恐怖です。父は老い、娘は年頃ですから。
しかし、事件という事件もなく旅団は去っていく。ひとりは、水のお礼にと、反聖書的な本を一冊、娘に手渡します。実在する書物ではなく、ハンガリーの作家クラスナホルカイ(一九五四-)の創作だそうです。
クラスナホルカイは、今作の脚本を務めています。
※エジンバラ大学のある記事では、この反聖書的な書物を、ニーチェの「悦ばしき知識」第三章一二五節に言及したものであると言っている。一二五節には、かの有名な一文がある。「Gott ist tot!(神は死んだ)」。

あるシーンを思い出します。父娘ともに、外の景色を見つめるシーンです。二人で仲良く、ということではありません。見つめる時は、畢竟ひとりです。
精神を刈り取る突風が吹き荒れ、色を失った荒涼たる大地を、各人窓辺に座り、毛布にくるまり、見つめ続ける。
変わらぬ窓先の景色といえど、風に乗せられ、大地を縦横無尽に舞踏する枯草の類は、日ごとに演者も変わっていることでしょう。
六日に割られた今作の日々も、代わり映えしないようで、確かな変容が二人の生活には生じている。生活が単純化すればするほど、変化というものには、敏感にならざるを得ない。
その変容の、大きなものとして、二人は家を後にしようとする。なぜか。井戸の水が絶えるのです。
父娘はそそくさと荷支度を済ませ、小ぶりの荷車いっぱいに荷物を詰め込むと、馬を引き連れ、突風吹きすさぶ中、一歩、また一歩と、家から遠ざかっていきます。
以降、二人が後にした家の窓辺から、小さくなっていく二つの点を長回しで追っているわけですが、丘を越え、地平の彼方に消えたかと思われた父娘は、早々に引き返してきます。
地平の先になにがあったかは、語られぬまま。地平の境には、一本の枯れ木が立っている。象徴的な枯れ木です。
枯れ木は細くしなやかな枝を空間にひろげ、突風を右に左にと受け流しているような印象を抱きます。実れば実るほど、枯れ木はたちまち、倒木の一途を辿っていたかもしれない。風を受ける面積がその分広がりますから。
そういうことを考えていると、二人が戻ってきた。地平の先の現実は、見なくても良かった現実ではなかったか。しかし見るという行為を介さなければ、現実を把捉することも出来はしない。
父娘は馬を仕舞い、荷解きを済ませると、食卓につきます。食卓には空の皿が三つ。二人は俯いて、なにも語らぬ。そうして、ただ静かに終わりを迎えます。

答えを拒む力が、この映画にはあるようです。
しかし、解釈の余地は残されている。解釈とは万人に許された特権でしょう。監督は言っている。

『御者は、仕事もお金もなく、命もないので、馬と同じように死んでしまうのです。』

『命がない』とは、特異な表現ですが、解釈の手立てすら失った二人であるなら、意味は通るようです。
現実は、直視すればするほど、直視する人間を蝕んでいきます。そうであるから、解釈に頼らざるを得ない。デルフォイの神の信託に身を委ねた人々は、決して現実に目を背けていたわけではなかった。
あまりある現実の力というものが、時として軽々と、命すらさらっていくことを理解していたがため、神の解釈を、あるいは神という解釈を必要としたことは当然の帰結であるように感じます。

空を飛べるものと空想することは、なんら恥ずべきことではないのです。


鋭利なること柔和なること、粗野なること繊細なること
親密なること疎遠なること、汚穢なること清浄なること
道化と賢者の巡り合い
私はこうしたもののすべてであり、こうしたもののすべてでありたい、
鳩にして、蛇にして、豚でありたい!
<「悦ばしき知識」 フリードリヒ=ニーチェ>


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