「チ。-地球の運動についてー」を観て
みなさん、飲んどりますか、にーとです。
今日もみなさんと同じ夜を、のんべんだらりと過ごしていこうと思います。
「チ。-地球の運動についてー」のアニメを観た感想の話。
''知恵の樹とは、エデンの園の中央部にあった2本の木のうちの一つ。もう一つは生命の樹。知恵の樹の実を食べると、神と等しき善悪の知識を得るとされる。知恵の樹の実はいかにも美味しそうで目を引き付けるとされる。''
知恵の実は「善悪の知識の木」になっていた果実、とあるのに、善悪と知りたいという欲求は切り離されなかったんだなというのが「チ。-地球の運動についてー」を観た今のところの感想。
知識欲というのは果てしなく、その時代における「善悪」とは違った、強い「信仰」に代わり得るものなのかな。知りたいという気持ちを抑えることが我々にはできるのか?という命題はとても刺さったわ・・・。
「正しさ」とか「意味」について考えることがよくあって、考える度に頭を抱える。なぜかというと、それが一般的でいわゆる現代における「普通」だからだ。この、なんだかよくわからない「普通」ってのはなんなのだ?
そんなもんクソだと言う人もあれば、それは尊いと言う人もある。こんな場所にこんなことを書いている俺のことを暇なアホだと言う人もいれば、これは創作活動だと言ってくれる人もいる。
当たり前なのだが、この世は自分用にフォーマットされた環境ではない。様々な意見があり、様々な考え方、違った宗教観、風習、ローカルルール、etc…
そこにあるのは、ただのそれぞれのルールブックであって、あえてアホみたいなタイトルつけるなら『猿でもわかる今の生き方!』みたいなクソHowto本みたいな。
「チ。-地球の運動についてー」の話に戻る。
みんなアホみたいに実直で合理的でない、と全体を俯瞰していた最初の主人公が、知りたいという欲求の沼にハマって合理性を失う過程は、死という結末の胸糞さはあれど「正しさ」とか「意味」について、全体が求める模範解答としての「普通」への気持ちのいいカウンターを食らわせてくれている。
理想と現実と言うと、キレイごとにカテゴライズされるが、結局のところその二極の中で「正しさ」を主張し合っているだけのこの世の中に「普通」なんて言う都合のいい地ならしは存在しない。
見て見ぬふりをしているだけで、理解ができない「何か」を排除することで得られるひと時の身内との親和に甘えてないで、俺の「正しさ」とは何なのか?を必死に考えて生きる方が、実はよほど人間らしいのかもしれない。
本作品の登場人物であるラファウが、クソHowto本『猿でもわかる今の生き方!』を見たら、きっとこう言うだろう。
「美しくない」
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あとがき
「チ。-地球の運動についてー」の、
「チ」って
「知」とかかってんだろうな~