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"キラキラ"なんてしない。下着2枚で世界と向き合う先にあるもの

 こんにちは、梅雨が明けそうな間際でまたこれでもかと降りしきる沖縄から、牧です。

 今回は、オンラインという実態のない世界に住み着いた"キラキラ"について思うところを語りたいと思います。

 ちなみに、これは"キラキラ"を好む人、目指す人をディスす意図があるわけではありませんので、あらかじめご承知おきください。

"キラキラ"ってよく使うけど、それって何?

 色んな人のFBやらインスタやらを見回っていると、頻繁に"キラキラ"という言葉が見られます。
 投稿している本人も、そしてコメントする人も。

 私の日常言語における"キラキラ"とは、お笑い現場にたまに出現する『アレ』であるため、人に対する表現としての"キラキラ"はしばらく身の内には定着しませんでした。

キラキラって言ったら・・・ねぇ。

 色んな人が、随所で使っている"キラキラ"。

 でも、注意深く見つめると、人によって少しずつ目指しているものが違うような感じのある"キラキラ"。
(私は世間で言うところの"キラキラ"を明確に理解できていませんが、それぞれの心の中には明確な定義があるのでしょうか。)

 それと同時に・・・自分とはかなり遠い場所にあるように感じる、"キラキラ"。

 色んな人が当然のように使ってる言葉なのに、なぜ私には遠い言語のように思うんだろう。

 女性成分が少ないから?

 キラキラの意味を理解していないから?

 それとも・・・心のどこかで言葉にならない何かをキャッチしているから?

 そう思い立って自身と対話した時、私は自ら"キラキラ"しない生き方を選択し、代わりに別の生き方を選択していることに気が付いたのです。

 "キラキラ"を選択しない理由は、一つの願いと、一つの決意でした。

理由1:信頼・尊敬する方々は基本"キラキラ"していない

 それに気づくきっかけになったのは、とある遠方に住んでいる友人の投稿。

 彼の投稿は毎回あまりにも地味で、一般的には注目を浴びそうもない内容にも関わらず、なぜか私はいつも彼の投稿を目で追っていました。

 それは、彼の投稿が穏やかで、世間からはあまり注目されないけれど大切なことを真摯に訴え続けていて、誠実さと信頼に足るものがあるからなんだ。
 そう、強く認識した瞬間がありました(笑いを誘う投稿もあるけど)。

 それと同時に、私がFBでつながっている人の中で、信頼と尊敬の両方を寄せている方の投稿は、どれも"キラキラ"していないことに気がついたのです。

 というよりも、まぁ皆さん地味ですね!地味!!
 でも、ヘタに飾らないからこそ信頼できるんだ。

 そして、私もこの姿勢で生きていきたい。
 これが心の奥に潜む私の願いでした。

理由2:"キラキラ"していると大切なチャンスを逃す

 これは"キラキラ"について考えた時に、ふと思い出した過去の記憶になります。

 今から10年ほど前だったかもしれません。
 当時の私はまだ"世界"を"敵"として認識しており、日々苦しい生き方を自らに強いていました。

 多分、FBを巡回していた時だったと思います。
 当時はまだ少なめだった"キラキラ"した投稿を目にした瞬間、強烈な拒否感が生まれて急ぎ素通りした・・・そんな出来事を思い出しました。

 なぜ"急ぎ素通り"しようとしたのか。

 出てきた答えは、『目が潰れそうで見ていられなかった』の一言。
 それは例えると、闇の中を歩いている中で強烈な光を注がれ、目を背けてしまうことによく似ているのです。

目があぁぁ!!!って、まさにそんな気分

 苦しみや怒りで満たされた生き方をしていると、いわゆる"キラキラ"感に強烈な拒絶反応を示すことがあります。

 そして、生きることにつまづき、背中を押したいと私が思っている人の中には、"キラキラ"に耐えられなかった過去の自分も含まれているのです。

 当時の私に思いを届けるには・・・そもそも"キラキラ"しないことだ。
 普段セッションをする時と同じように、素の自分のままで、これから出会うであろう人に向き合いたい。

 それが私には一番しっくりくるなと思ったのです。

下着2枚で世界と対峙する生き方

 結局のところ、『地味な』『素のままの自分で向き合う』ということは、飾らずありのままの姿で人と、ひいては世界と向き合って生きるということです。

 中学生の時、「私は私のままでは誰にも受け入れられない」という強烈な強迫観念で自らを偽る生き方を20年近く続けてきましたが、それは本当の意味で幸せな気持ちからは遠ざかっていた期間でもありました。

 一見、人とうまくやれたとしても、偽った私と仲良くしてくれる人は、本当の私を見ているわけではない・・・その事実に向き合うたび、強烈な心の痛みを感じていたのです。

 そんな思いがあったからか、うつ病からの回復期である30代に入った頃からは、自然とありのままの自分で生きる選択をしてきたように思います。

 ありのまま、とは言っても、人との関係性の中で少しずつ顔を変える必要性があるのも事実。
 なので、気持ちとしては『裸一貫!』ではなく、『下着2枚』が正しい表現かもしれませんが。

 しかし、人としてあまりにも未熟すぎる時期は、"ありのまま"では多方面で衝突を起こし、お互い傷だらけになったことが何度もありました。

 それでも諦めず、同時によりよく生きる選択をし続けた結果、感じたことを素直に表現し、思ったことをそのまま伝え、気持ちの赴くままに行動しても、自分も人も傷つかない・・どころか、沢山の人の笑顔を見られるようになったのです。

 私は、この世界を下着2枚で生きていける!!

 しかも、こんなにも沢山の人の笑顔を見る幸せに包まれながら!!!

 心の底から"私はキラキラしているんだ!"という人はそれでいいのだと思います。

 ただ、もしも心のどこかで意図的に"キラキラ"しなければいけないという気持ちがあるのであれば・・・命綱から手を放すような気持ちで、ありのままの自分で生きてみませんか?

 命綱だと思っていたものから手を放したら、実は地面に立っていました・・そんな結果を、必ず手に入れられることでしょう。

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