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【毒親との記憶は、水に流すことにした4】母の不機嫌と生きる私

「不機嫌は無言の暴力」という言葉を聞いた瞬間、頭に浮かんだのは実家の光景だ。朝、母のいるキッチンに近づくときのあの緊張感——。

小学生の頃、家族の中で最後に起きるのはいつも私だった。父も兄も早くに家を出るため、朝の時間は母と私の二人きりとなる。

顔を洗い、「おはよう」と声をかけと、母は不機嫌そうな顔でため息をつく。それだけで、何もしていないのに、まるで自分が悪いことをしたような気持ちになる。そして、つい「ごめんね」と口にしてしまう。

しかし、謝罪が彼女の逆鱗に触れ、「何で謝るの?」と怒りが爆発する。私に向けられた言葉の裏には、父や兄への不満が見え隠れしていた。朝からいろいろあったのだろう。

「それ、私のせい?」と聞こうものなら、「ほんと、あんたは可愛くない」と返される。母に「可愛くない」と言われるのは日常茶飯事だった。容姿のことではなく、私の言動を指しているのだ。

「可愛くない」と同じ意味で、母がよく口にしていたのが「お父さんにソックリ」という言葉。どちらも、母の期待を裏切ったときに向けられるものだった。そして、もう一つ多かったのが「お兄ちゃんと違って」。

それらの言葉を文字通りに解釈すれば、「兄と違い、父親に似ているから可愛くない子」となる。私のせいではないことで怒られる度に、幼い私は深く傷ついていた。

小さな子どもは、母親を無条件に愛すると同時に、「愛してほしい」「守ってほしい」という本能があるのだと思う。この世界で生きていくためには、父親よりも母親の存在のほうが、私にとってはずっと大きかった。

当時、わが家には父がほとんど家にいなかった。郊外の自宅から会社まで片道2時間近くかかり、唯一の休日は日曜日。終電を逃せば帰宅できず、カプセルホテルに泊まていた。翌朝は始発で帰ってきて着替え、そのまま出社する。

私が登校する頃、父はようやく帰宅し、「おはよう」でも「おかえり」でもなく、「おやすみ」とつぶやく。それでも、寂しいというは感じなかった。父が外で働いてくれていることへの理解が乏しかったし、そういうものだと受け入れていたのかもしれない。

兄は私より5歳年上で、中学から私立に通っていた。そのため、朝は7時前に家を出てしまい、帰りも遅い。夕食は母と私の2人きりだったが、会話が弾むことはほとんどなかったと記憶している。私はひたすら母の機嫌を損ねないことに気を配っていたからだ。

学校の話をするとき、私にとって最も大切なのは「母の機嫌を損ねないこと」だった。事実よりも、母が満足する話題を慎重に選び、彼女の期待に応えようと努める。

だから、学校での悩みや友だちとのトラブルを打ち明けることなど、考えもしなかった。母が望んでいるのは「優等生の娘」だと分かっていたし、相談したところで力になってくれるとは思えなかったのだ。

実のところ、私の学校生活は決し順調とは言えなかった。その一因として、学校での出来事を正直に話せなかったことがある。小学生にもなれば、人間関係のトラブルは避けて通れない問題だ。いじめとまではいかなくても、クラスの女子が順番に無視されたり、陰口を言われたりすることは日常茶飯事だった。母はそうした状況を何一つ知らないまま、娘の言葉だけを信じていたはずだ。

とくに、小学校3年生のときは、社会的にも学級崩壊が問題視されていた時期だった。私のクラスでも数名の生徒が授業中に大暴れし、騒ぎが絶えない状態となっていた。トラブルの主犯格は近所に住む男の子で、母親同士の親交がある。母に知られたら面倒なことになると察し、私はクラスの問題について一切口を閉ざしていた。

しかし、保護者会では当然のように学級崩壊の話題が持ち上がる。何も知らなかった母は、周囲から冷たい視線を浴びたらしい。居心地の悪さを抱えたまま帰宅した母が、開口一番に私に尋ねたのは、「あなた、加害者なの?」という言葉だった。

どうやら母にとって、「被害者なら問題ないけれど、加害者なら頭を下げなければならない」ことが何よりも重要だったようだ。娘の状況よりも、自分の立場を守ること——それが母の基本的なスタンスだった。

母の本音を知り、心の扉を閉ざした瞬間でもあった。「もう二度と、この人に助けを求めるのはやめよう」——そう決意した、忘れられない出来事となっている。

学級崩壊の中で私は直接的な被害を受けたわけではなかった。主犯格の子は、親同士のつながりを意識していたのか、私は何も危害を加えられていない。ただ、授業中の騒ぎや暴言には、少なからず迷惑を被っていた。それでも見て見ぬふりをしてしまった私は、結果的に学級崩壊を助長していたのかもしれない。

もし当時の私が、母に「私も加担している」と告げていたらどうなっていただろう。そう思うとゾッとする一方で、母の理想からもっと早く抜け出せたかもしれないという、わずかな後悔が残る。当時の私に声をかけられるなら、「母が困るほうを選びな」とアドバイスしたい。

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