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裂ける|tsuzuki

 早希は「ただいまー」というなりユニットバスに向かう。キュッと音をさせて蛇口が閉まる音がする。いつもの小気味よい動きを感じながら、祐一はクッションソファにもたれ、スマホで漫画を読んでいる。すぐに早希は横にすべりこんできて、冷たい手が彼のお腹をなでる。
 スマホ画面から目を逸らさず「みんな元気だった?」と訊くと、彼の胸に頭を押し付けながら、ナツ結婚するんだってーとかたくみの髪だいぶきてたわーといった報告があがる。あー祐一いてよかったわーしんどいわーなどと言いながらひどく眠そうにあくびをする。甘いアルコールの混ざった空気が漂う。
 早希は大学を卒業してから三年勤めた会社をやめた。その送別会から昔のサークル仲間での飲み会まで、はしごして帰ってきたのだ。祐一も同じサークルだったが、こういった集まりに参加するタチではない。
 スーツのまま横たわった彼女は目を閉じている。ベッドから毛布を取って彼女にかけ、またその横に腰掛けて漫画を読みなおす。
「いなくなっちゃったんだってー」
 相づちのつもりで「だれがー」と続けてみる。「ユキノ」と返ってきて一瞬スマホを落としそうになる。「え、ユキノどうかしたのー」。不意の反応をなんとか治めようとして「のー」だけが伸びて焦る。早希はゆっくりと起き上がり、バッグからペットボトルを取り出す。ぐびぐびと音を立てて水を飲むと「しっそう?」と言って息を吐く。続きを待ってみるが、ねむい目をしてぼーっとしているだけだった。早希が酔っていたことに少しだけホッとしている。
「死んじゃったのかな」と短く言って早希は立ち上がり、ゆっくりとジャケットを脱ぐ。少しふらついていたけれど、祐一は手を貸さない。「びょうきとかぁ、おかねとかぁ、ちじょう? いろいろあるよね」とブツブツ言いながら下着姿になって、スウェットを探している。早希はつるんとした必要最低限のシンプルな体つきをしている。祐一は学生の頃のユキノの身体を思い浮かべている。
 早希とは対照的だった。むしろふくよかとも言えるし、しまりの無さは凡庸とも言える。深い奥二重は目つきの悪さを思わせ、暗めの唇は盛り上がることなく急にはじまり、まるで粘膜の露出を思わせるように品がなかった。けれどユキノの裸には懐かしさのような、昔からの知り合いのような安心感があった。
 ユキノに触れてから数ヶ月の間、どこにでも、例えばアルバイト先の喫茶店の客の中に、人込みに、旅行先の東南アジアの街でさえも彼女がそこにいるような気がした。けれど実際のユキノが彼の望むタイミングで彼の前に現れることはなく、いつも唐突に彼の前に現れ、普段からいつも一緒にいたかのように振る舞うのだった。
 いま、祐一の脳裏に映るユキノの像は少しずつ粗く不鮮明になっている。それでもユキノという名前を聞いて、自分が熱をもつのを感じている。早希は彼の横ですっかり目を閉じ、唇の間からかすかに白い歯をのぞかせている。しだいにその顔がぼんやりとしてきて祐一は呼吸が苦しくなっている。

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