
目|tsuzuki
日が落ちた頃、ライターの在宅仕事を早めに切り上げて駅の軒下でゆかりさんの帰りを待っていた。各駅停車の小さな駅だが、都心のターミナル駅からそう遠くないこともあり、駅前の人通りは絶えない。
この夏を越えれば、ゆかりさんと暮らして三年が経つ。ゆかりさんはタカシより一回り年上で、もうすぐ四〇代半ばになる。大手設計会社の建築士として働いている。友人の紹介で知り合ってすぐに、一緒に暮らし始めたのだけれど、彼女は気取ったところがない上に、いつも穏やかに笑っている。
オリンピックに向けてとにかく忙しいのだと言うゆかりさんは、ここ数日ずっと帰りがおそかった。その日、タカシが起きると彼女はぐったりとキッチンの床に座り込んでいた。近寄ると赤らんだ虚ろな顔でゆっくりと立ち上がり、トイレに行く途中でまたうずくまってしまった。それでも仕事に行ったこの日、仕事先で倒れた彼女は念のために職場から病院に運ばれたということだった。
病院から電車で帰るという知らせを受けて、タカシは駅に向かった。途中コンビニで傘を買った時にはすでに体はじっとりと濡れていた。軒下に立ち、ハンカチでメガネを拭く。コンビニやスーパーやマクドナルドが青や赤や黄色の光で路面をキラキラさせている。道は狭く人が多いので車はあまり通らない。眼鏡をとった視界にはだれもいない。それまで歩いていた人間は一様に表情を失い、ただぼやけた影になる。
目の前の街灯の下に降り注ぐ雨粒の軌跡が白い線になって、目の前を少しずつ覆っていく。視界がだんだんと白くなる。その奥に、灰色の傘が見える。傘が駅からどんどん吐き出される。ベルトコンベアーに乗って流れるように目の前を多くの傘がすーっと過ぎていく。雨の音がしないように傘たちが動く音もしない。
突然金切り声が聞こえて脳が揺れる。声のした方を見ると、駅前のスーパーを出たところで、子供が濡れたアスファルトの上に座り込んでいる。母親らしき女性が横にしゃがみ込んで何かを語りかけているけれど、子供は時折脳を揺らすような甲高い声を出して地面にお尻をつけている。女性は手を伸ばし、びしょびしょになった子供を抱きかかえる。子供はより一層大きな声をあげ、手を振り回す。女性は片手で傘を閉じ、子供を肩に抱えると悠然とタカシの前を通り過ぎる。一瞬子供と目があったように思うがやはり顔はよく見えない。
二、三メートルくらい先の通りの角にビニール傘を指した女の子が立ち始める。そこに立つ女の子は日によって二人だったり三人だったりする。特になんの特徴もない女の子たちだ。近くにあるガールズバーのチラシを渡されたことがある。酒を飲む習慣がないタカシには、女の子のいるお店に行くことの価値はよくわからない。けれどなぜだか気になって、メガネを拭いて掛け直す。店の制服なのか白くて柔らかそうなパーカーを着ている。ショートパンツから伸びる脚は白くてパンパンでそこに立つだけで目立つ。細い目がにっこりとしているようにも見える。
気づかれないように彼女を盗み見るが、彼女がどこを見ているのかはわからない。ただ傘をさしてそこに立っている。すぐにスーパーの灯りが消え、彼女の表情の手がかりは失われてしまう。
空に閃光が走った。ほんのコンマ何秒かの間、何もかもが昼間のように明るくなる。マクドナルドと隣の古い時計屋さんの間の狭い隙間にいた猫の目がビームのように光り、スーパーの屋上に置かれた給水タンクの球体を止めるボルトの茶色い錆が見えた。光が一瞬だった分、タカシの脳には写真をとったかのように全体像が刻み付けられる。
その映像で女の子の表情がはっきり見えた一重まぶたの奥の細い目は、タカシを見ていた。これまでもずっとタカシを見ていたのだと分かるほどにまっすぐだった、顔の角度も輪郭も少し前から寸分違わない。しかし、そこにはあるべき意思や感情がなかった。ただ意図を読み取ることができない眼差しがじっと彼の目に向かっている。
ひるんでいる。自分がなにか、大事なものを読み損なっているのではないか、自分が何か大きな問題を抱えていて、彼女はその奥深くを見ているのではないか、という焦りのようなものが襲ってくる。再び閃光が走る。ただ光るだけだ。音はどこからも聞こえない。すべてが白日の元に晒されているような気がする。慌てて目をそらすけれど、先ほどの目のイメージが脳にこびりついている。