
腕|tsuzuki
エンジン音に耳を叩き続けられて、もういい加減いやになってきたとき、誰かが肩を叩いた。振り返ると夕日が海に沈みながら溶けていく。海の向こうが音もなく燃えている。このまま自分たちもすぐに飲みこまれるような気がした。立ち上がろうとしてよろける。
高学年のゆうちゃんがすぐに気づいて和文を捕まえる。それから従兄弟の中で最年長のごんちゃんを経由して和文は父親に渡される。タバコと汗の臭いが染み込んだ父親の太い腕に胴体をがっしりと掴まれている。周囲が真っ暗になっても船は進み続ける。どこにいくのか大声で父親に聞いてみるが、父親はじっと暗闇をみつめて反応しない。
時折海の飛沫が顔や半ズボンの足元に飛んでくる。気持ち悪い。腐った魚の肉体から出るしつこい生臭さ、焼酎のつんとする匂いにタバコの匂いが混じっている。足元はぬめぬめしていて、父親の手から離されれば強い風に一瞬で攫われるだろう。水が広がっているはずの海を覗き見るけれど、ただ暗い闇が広がっているだけだった。
少ししてエンジンが音を消した。同時に振動も止まった。耳の中ではまだずっとばたばたばたばたという残響が鳴っている。船はゆっくりと上下に揺れだす。照明も完全に消えた。周囲には何もない。何もない広大な海の上で完全に脱力した小さな船が浮いている。
父親の腕は和文の腕を数本集めたくらいに太いが、この海の闇では本当に父親の腕なのか信じられない。なにか強い力に完全に自由を奪われている。自分にできることは何もない。そう思うと、体から力が抜けていく。
遠くに小さなあかりが見えた。大きな照明が光っているように見えたけれどよく見ると、四角い壁が照らされて、反射しているようにも思える。「なん?」とどこへともなく言葉を発すると「プサンたい」と頭の上から父親の声がした。「外国ぞ」
「行くと?」と訊く。驚いて大きな声が出た。少し離れたところで大人が「がは」と笑う声が聞こえて、船に何人も大人がいたことを思い出す。「こん先行ったら捕まるばい。牢屋はいるか」と誰かが言った。「なんば言うか、酒飲んどうて」とまた誰かが言う。そうして思い出したように船は再びけたたましい音を上げて急旋回する。
漁船は猛スピードで黒い水の上を駆け抜けていく。力強く安定していて、一目散に逃げ帰るように水面を滑り続ける。目の奥には先ほどの遠い街のあかりがちらちらと揺れている。