チューリップ|hidemaro
扉を開けると、いつもと変わらない部屋がそこにはあった。窓から差し込む午後三時の生成り色した光が、絨毯の縁を染めている。鞄を玄関に置いて、ソファに腰掛ける。目の前の光景は本当にいつもと同じで、本もレコードも、アザラシのぬいぐるみも、クローゼットから放り出したままの服も、何も変わりはしない。外からは、下校する子どもたちの声が聞こえてくる。
ここが三日前の部屋だったら、どれだけ良かっただろうか。人が一人この世から消えても、何も変わらず日常は続く。日常は誰の日常か。日常の集積で、世界はできている。欠けた微細な日常は、新しい誰かの日常で補完されていくのだ。
「そんなこと、わかってたでしょ」
そう言って笑うあの顔が浮かぶ。わかっていたけどさ、やっぱり辛いよ。変わらない部屋が憎かった。何か一つでも、変わっていて欲しかった。変わっていないのなら、何一つ変わらないでいて欲しかった。
十三年前の冬の路上であの手に背中を押され、ここまで走ってこれた。駅伝ではタスキの受け渡し区間は決まっていて、受け渡しが済めば前の走者はすぐに離れていく。しかしあの時、受け渡し区間のギリギリまで、審判も驚くほどに、あの手は走り出す背中を勢いそのまま押し続けた。勢いに乗った背中は、見事一位でゴールした。でも、多分そんなことも忘れているだろう。あまり、思い出には執着しないタイプだったから。
薄い剃刀を持って浴室に入ると、三日前に買ったチューリップがそのまま洗面台に残っていた。西日が差し込む浴室で、チューリップは僅かな水面にその桃色を反射させている。誰にも見られることのない、美しい光。手に取ると、チューリップの浸る水はぬるくなっていて、その温もりに少し驚いた。買った時よりも花は開き、香りを強く放っている。喜ばせたくて、買っておいたチューリップ。
この部屋の中で、この花だけが時を進めていた。無意識のうちに零れ落ちた涙が、洗面台の上に水紋を一つ、二つと広げていく。桃色の水紋に、袖口を濡らすぬるい水。進めてしまった時の中で、また走り出すしかなかった。