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記憶|とわ

 夕方から灰色の雲が立ち込め、雨が降りそうだった。新緑の山はひとかたまりの巨大な影となって、吹き下ろす風が鈍色の水田を白く波立たせていく。
 庭先に出したポップアップテントの中で、あさひとひなたはぬいぐるみ同士で何かしゃべらせては大笑いして転げている。朝に結った髪はほつれて目にかかり、着せられたジャンパーは肩からずり落ちている。長女のみちると次男の啓人のところに一人ずつ生まれた子供はどちらも女の子だ。みちるの子供のあさひのほうが二つ上だが、気が合うのか会えば喧嘩をすることもなくずっと二人で遊んでいる。
 日中は火葬場の控室でプリキュアごっこに興じて、あさひはキュアリリアンでひなたはキュアニャミーになって、座布団を重ねた敵と戦っていた。みちるはその様子を動画に収めながら、母はいまも病院のベッドで退屈をしているような気がしていた。
 母が愛飲していた発泡酒を飲み干すと、アウトドアチェアから立ち上がって室外機の上のクーラーボックスを開ける。氷水には弔問客が手を付けなかった缶ビールや酎ハイが浮かび、パーカーの袖を捲ると水底にガラス瓶の感触を探る。
「ねえ、ひいばあちゃんが死んだときのこと覚えてる? 小学校六年生のときだから、もう何年前? 二十何年前とか?」
 みちるは白ワインのボトルに付いた水滴を手で拭うと、プラスチックカップに注ぎながら話し始める。
「授業中に教頭先生が入って来て、藤村さん急いで帰る支度してって言われて、こうランドセルだけ肩に掛けて校門のところまで行ったら、お父さんが体育館の脇のところに軽トラックを停めて待ってて、ひいばあちゃんがもう危ないみたいなこと言われたと思うんだけど。それでさ、軽トラックだから二人乗りじゃん? 誠も啓人もいないんだよ。そのあとの記憶にもいないの。何でだと思う?」
 カップに口を付けながら戻ると、紙皿から冷めて皺の寄ったスナップエンドウを摘まんで口に入れる。
「おれの記憶だとよお、駅前に兄ちゃんと同級生いっぺした。啓、大丈夫だってなぐさめられながら帰って来てよお。家に着いてまっさきに隠居まで走って行ったら、ベッドも片付けらっちぇっぺし誰もいねえべしよお、もう悲しくなっちゃって。隠居の裏の畑に行って一人でぼーっとしてだの覚えてるよ。でもたしかに、何で兄ちゃんと帰って来ねがったんだべ」
 啓人は焼き網のすぐそばにコンテナボックスを返して座り、なかなか火の勢いが出ない炭をトングで弄っている。となりで奥さんの琴ちゃんが「なんかガスバーナーみたいなのあったじゃん。それでわーっと着けちゃったら?」とコンロをのぞき込むと、「せっかく松ぼっくり拾って来てがんばって着けたのに、台無しだっぺよ」と啓人が笑う。
「おれは一人で帰ってきたよ。おれが四年のときだから、姉ちゃんは五年だと思うよ。んで、は啓は二年。担任、佐竹先生だった」
 長男のが誠が言葉少なく答える。一人暮らしを始めてからはほとんど実家に寄りつかず、こうした食事の輪の中にいるのはめずらしい。母が亡くなってから火葬までの数日でさえ、実家には泊まらずに車で三十分ほどのアパートへ帰った。今日もノンアルコールのビールを飲んでいる。
「えー、そっか。でもそっか、わかった。ひいばあちゃんの誕生日が三月で、もうすぐ九十三歳になるねって話してた矢先に亡くなったんだ。わたしもすぐ六年生になったからそう覚えてたのかも。でもさ、ほんとに何で三人別々に帰って来たんだろうね。すごい不思議」
 遠くで消防団の警鐘が聞こえる。山峡の雲をあやしげに染めていた夕日は沈み、赤々と調子づいてきた火のそばを離れれば、みちるの身体は暗闇に霧散してしまうような気がした。次第に近づいて来る音に、子供たちは急に後ろを振り返ると無口になって、じっと音の正体を待つ。テントの天井に吊り下げられた懐中電灯の明かりが、二人を守るように包んでいる。

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